“それでもなお”物語―大衆演劇のお芝居の話―

はるか、なつかしい人間の姿に出会うことがある。
お芝居の中でだけ、出会える。
「なぁとっつぁん、親孝行の手始めだ」
たとえば父親の肩を揉む青年のほがらかな笑みだったり。
「迷わず成仏してくれよ!」
やくざ者が仲間の死を悼む、清々しい輪郭だったり。

ああそうだった、心にはこんなひだもあった、人間にはこんな心もあった。
世慣れた旅人が好きなお嬢さんの前では照れる、みずみずしい恋心や。
顔面に醜い火傷を負った男の、地を這うような慟哭も。
小さな舞台をめぐりめぐる喜怒哀楽の様々が、私の体の奥まったところに眠っている目を開いてくれる。

観劇仲間たちと集まれば、それぞれが観た芝居の感想は尽きることがない。
「あの劇団でよく観る、セリフなしで表情とか動作だけで感情を表す演出が好きなの」
「こないだ観た芝居では、お盆っていう道具の使い方がとっても上手で。二人の間のお盆をこっちに引き寄せたりあっちにやったりするのが、二人の心を表してるみたい」
「クライマックスの場面、座長のあの表情が、ああ、人を殺してしまった!っていう人間の素朴な恐怖だったんだよね」
心にいつまでも取っておきたい風景は、いくつも、いくつも。

そんな大衆演劇の舞台は、しかしながら、現実であり生活であるという。

「とにかく毎日回すのに必死で、やりたいこととか考える余裕がない」
「あの芝居は好きとかこの芝居は嫌いとか、言っていられませんからね…」
役者さんのつぶやきを時折耳にすると。
お芝居素晴らしかった!と、何も知らずに、はしゃいでいる我が身ののん気さを思い知る。
近いように見える舞台と客席は、実はどこまでも遠くて。こちらには週に一、二度のお楽しみでも、彼らにとっては毎日のお仕事。
商業演劇やいわゆる伝統芸能に比べれば、時間もなく、人手もなく、余裕もない。舞台裏では音響をし、照明をし、衣装を出し入れし、自分たちだけで一日回しきらなくてはならない通常業務。

そんな舞台の上に立っている人々について、耳にべたついてくる話もたくさん。役者さんには付き物のお金の苦労や体の苦労、立場の苦労に血縁の苦労、そして玉虫色の噂、噂…。それらがすべて知られている客席に、彼らは今日も剥き身で立つ。
その胸に貼りつけられる現金。諭吉さんがねっとり扇を開く。生きていくために。

ああ生きていくって大変!生きていくってしんどい!実際、疲れ果てているのが隠しきれない舞台だって何度か出くわした。

舞台にあるのは、現実と、現実と、また現実…?
それでは、物語はどこで果てるのだろう。
芝居は、どこへ消えるのだろう。

「俺のこの身体が舎利になっても、銭はなんとかいたしやす!」
一張羅の着物も売り飛ばして、乞食同然の男が叫んでいる。逢春座の昨年12月の大島劇場公演。神楽良さん演じる小川勝五郎。極貧の勝五郎は、それでも恩あるお蝶姐さんの病を治さんとする。

神楽良さん(2015/12/13)


涙声で胸を叩いて、“俺のこの身体が舎利になっても”。
恩人の苦しみを目にすれば、自分の身を投げ出して這いつくばっても恩に報いる。人間の最も尊い側面だと思う。
“生活”の前に。“現実”の前に。
この瞬間、たしかに舞台と客席で分け合った、小川勝五郎の真心はどこへ消えよう?

生活だからこそ、毎日、旅役者である彼らは演じる。日々の糧として、演じ続ける。
やくざ者として股旅装束に身を包み、侍として斬り合いをし、浪花の商人として舞台でソロバンを弾いてみせ、悪党として闇討ちの小刀を握り、尽くす妻として夫に膝をつき、芸者として哀しく微笑む。
「お芝居をするってことは、時代を超えて旅をしてるようなものだし…演じる側にもやっぱり救いになるんじゃないのかなぁ」
友人の一人はそうつぶやいた。

こうだったらいいなぁ、という私の想像にすぎない。
けれど役者さんが自分ではない者になりきるとき、架空の誰かに感情を寄せるとき。
その一瞬だけでも、心は遠い風景を見やしないか。
生きることの痛みをくるみとる、寸秒の飛翔がありはしないか…?


「芝居の役になってる人は、もうその人じゃなくて、役の人物に見えちゃうんで」
と、サラリと話す座長さんがいた。
「舞台にでると泣くときは本当に泣いちまうんだ。するとそれはお客にも通じてお客もふわーっとくるんだな」
と語る大ベテランの役者さんもいた。
お芝居良かったです、とお客さんが褒めるなり、
「いや、今日は世界に入りきらんかった!」
と間髪入れずに言った座長さんもいた。

彼らが芝居の世界に“入りきる”とき、私たち客席も同じ風景へ飛べる。登場人物と一緒に泣いて、一緒に笑う。
泣きの芝居では、前や横や後ろからも、ぐすっと鼻をすする音が聞こえてくる。客席にもたくさんの人生がよぎる。私みたいな下っ端会社員も、学生さんも、主婦の方も、年金暮らしの人も。
仕事や病気や家族や、それぞれの口には出せない苦労が狭い劇場内でむせ返るようだ。

それでも。
「お前の持ってる不幸せを、これから二人で引きずって生きていこうじゃねえか!」(『下北の弥太郎』)
この世のへりにつかまっていれば、降ってくる物語がある。こんなところにもまだ、笑みかける光がある。

大手の商業演劇のような潤沢な人手がなくても上等だ。伝統芸能のような立派な舞台装置がなくても十分だ。
毎日、ただ毎日芝居をして生きてきた、あくのわき零れる顔つきが。手足が。涙が。セリフが。ヤマ上げが。
私たちの心の深奥に開ける、ふるさとへ連れて行ってくれる。

ね、一緒にあの芝居に泣いたよね、笑ったよね、人生の薬になったよね。
だから舞台の上も下も、お芝居の中でまた会いましょう。一番近いところで、人間の顔で会いましょう。
そしてみんなで、生きていかなくては。

お金の苦労や体の苦労、立場の苦労に血縁の苦労、そして玉虫色の噂の中で。
何の役にも立たない、笑われそうな消えもの。
それでもなお、全国の劇場で、センターで、毎日紡がれるお芝居が。
“物語”が、今日も誰かを救っている。

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