長谷川伸「瞼の母」

やっぱり、感動した。
ド定番でも、展開がわかっていても、感動した。
読み終わった時、おっかさァん、とこだまする声が頭の中で聞こえるくらいに。

読んだのは、長谷川伸傑作選「瞼の母」(国書刊行会)。
セリフが文字になって、聞き逃すということなしに、ぐいぐい目に入って来る。
だから忠太郎の心が、一文字一文字焼きつく。
何十年経っても、母を慕って縋って仕方ない心のほころびが。
 
「瞼の母」といえば、忠太郎とおっかさんが対面する場面の印象ばかりが強かった。
でも、今回一番打たれたのは、その前の場面だ。

まだおっかさんを探している頃の忠太郎。
夜鷹のおとらさんが、「水熊のおかみさんには何十年も前に生き別れた子供がいる」と話して聞かせる場面。

「あたしの推量では、もう子供のことなんか忘れてしまい、思い出しもしないだろうねえ」
「(自分とおかみさんも)昔は随分仲好しで、世話になったり世話したり、姉妹同然にしていたんだが、この何年というものは、途中で会えば顔をそむけ、よんど困って尋ねてくれば、今のように叩き出させる。人間という奴は月日が経っては駄目なものさ」。

おとらさんの言葉を、忠太郎は確信を持って否定するのだ。

「それはそうだが知らねえが、母子はまた別なもの、たとい何十年経ったとて生みの親だあ、子じゃあねえか。体中に一杯ある血は、双方ともにおんなじなんだ。そんなことがあるものか」

あるものか。
あるものか…。

たとえ三十年会っていなくとも。
何の便りも手掛かりもなくとも。
自分を忘れるわけがないではないか。
すげなくするわけがないではないか。
だって、おっかさんなのだから。

多分舞台で観ていたら、ここでもう泣いてしまったんじゃないだろうか。

忠太郎の母への思いは、信仰にすら似ているのに。
報われることはない。
応えてもらうことはない。

それでも、心を鬼にした母に涙ながらに追い返されるのなら、まだ救いもあったかもしれないけど。
三十年恋しがったおっかさん・おはまに忠太郎がもらったものは、カラカラに乾ききった言葉だけだったのだ。

「そんな手で這い込み(銭貰い)はしないほうがいい」
「娘をたよりに楽しみに、毎日毎日面白く、暮している処へひょッくりと、飛んでもない男が出て来て、死んだ筈の忠太郎が生きています私ですと。お前、家の中へ波風を立てに来たんだ」
「忠太郎と名乗って出て、お登世へ譲る水熊の身代に眼をつけて、半分貰う魂胆なんだ」

冷たい目が見えるような、疑いの声が響いてくるような。
これらの言葉を聞いているときの忠太郎の態度が、あまりに焦っていて。

「えッ、ち、違ってる。あッしが忠太郎じゃねえのでござんすか」

あまりに必死で。

「そ、そりゃ非道いやおっかさん」

あまりに、哀れで。
前半で忠太郎に感情移入してしまっているもんだから、胸が詰まる思いがする。

さて、この後にもう一つ見どころ。
失望の底に突き落とされた忠太郎が、水熊を出ていった後。
忠太郎の妹に当たるお登世がやって来て、今の人はもしや兄さんではないの、とおはまに問いただす。
その後のおはまの言葉ほど、悲しいものはないと思う。

「生れたときから一刻だって、放れたことのないお前ばかり可愛くて、三十年近くも別れていた忠太郎には、どうしてだか情がうつらない」
「あたしゃお前の親だけれど、忠太郎にも親なんだ、二人ともおんなじに可愛い筈なのに何故、何故お前ばかりが可愛いのだろう」

情愛はない。
長い年月の中で枯れてしまって、おはまの心から沸き出ない。
どんなに責めても、どう転がっても、情がないものは仕方ないのだ。
たとえあったとしても(このあと忠太郎を追っかけるわけだし)、とても忠太郎の母への慕情に追いつくような深さではない。

忠太郎の情の深さと、おはまの情の乾き。
片方は三十年の間に募りに募り、もう片方は同じ歳月の中で段々に薄れ。
気づけばそこには埋めがたい落差。
この落差の大きさが、悲劇なのだ。

ああ~…名作。
とことん、名作。


ところでお芝居では、劇団荒城の華月照師座長主演のものを観たことがあります。
照師座長の繊細そうな面差し、確かに忠太郎っぽいと思います。

写真・華月照師座長(9/8舞踊ショーより)


照師座長の演じた忠太郎は、とにかく敏感そう。
あの大きな目が震えると、色んな事に心を限界まで張ってる忠太郎像が結ばれる。
素直な青年が、心を押し殺して、耐えて、ヤクザをやってきたって感じがします。

お母さんの前で、悲しみのあまり顔をそっと覆うシーンとか、絶品。
どこか急所を突いたら折れてしまいそうな…まさにハマり役でした。

これから色んな劇団さんの「瞼の母」、色んな役者さんの番場の忠太郎を観ていきたいな。
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