いつか止む雨 ―あんなもの、と誰かが言った―

「その扱いは、大衆演劇の役者さんだから、ってことですか」
先日、ある役者さんに思わず聞き返した。彼が商業演劇に出演した際の、落とし穴に足を滑らすような想定外の不平等を聞いて。うん、と頷くその人の目がぱちぱち瞬いて。何を見ていたのか今もわからない。

“「どうして私たちが大衆演劇の役者さんと同じ舞台に立たなくちゃいけないの」”
1980年代。松井誠さんは、出演したイベントで共演の歌舞伎役者がそう言うのを聞いたという。
“ああ、なるほど大衆演劇はそういう見方をされているんだなと痛感しました”
(『演劇グラフ』2010年2月号 新春特別対談)

時代は変わった。現代ではもちろん、同じ舞台人としての敬意を持った交流のほうが多いだろう。商業演劇の俳優さんが大衆演劇の舞台にゲストとして出演したり、お互いのブログに友人として登場したりする、温かな光景もよく見る。

だから、冒頭のようなエピソードを聞くと足が止まる。身の回りには大衆演劇ファンや、大衆演劇を発信しようと尽力している人々ばかりなのに…。いや、もしかすると、自分の日常がこの界隈に浸かりすぎているんだろうか。
まるで居心地の良い洞穴を出たら、外は雨が続いていたような気分だ。目を凝らすと、降ってくるのは尖った言葉の断片。

「すごく役者を大事にしてくれる四国健康村みたいなセンターは、また乗りたいなって思いますよね。いや、たまに、ほんとに役者をバカにしてる所とかあるんですよ! そういう所ではやっぱり、なんだテメェって気持ちになっちゃったり…」
穏やかな人柄に珍しく、荒い口調を見せた役者さんを思い出す。

“学校に行けばいじめの対象だったもの。白粉くさいとか、オカマとか”
(橘小竜丸太夫元座長<橘小竜丸劇団> 2015年9月SPICEインタビュー)

“大衆演劇の役者なんか出入りするとそういう人たちが多くなるから嫌だ、とかさ。そういう声だってあったわけよ”
“意外とね、近所の方ってね、人の目があってね、行かないんですよ、どういうわけか(笑)なんつうんだろ、大衆演劇に対して偏見がある”
(劇場近くの喫茶店のマスター 2016年5月SPICEインタビュー)

冷たい雨の中を歩く。気づくと、足元に古い立て札が突き刺さる。
“物乞いと旅芸人は村に立ち入るべからず”
川端康成の『伊豆の踊子』の一場面。あの小説の舞台はたしか、大正時代だったはず。

“ほんとに役者をバカにしてる所とかあるんですよ!”
平成の世、表向きは芸能人かアイドルのように誉めそやされていても、時折声をひそめて裏側が翻る。
所詮はあんなもの、と。
いわゆる、ちゃんとした演劇じゃあない、と。
この世はまだそんなところに在ったのだ…。

大衆演劇の役者さんの中にも、自嘲的に語る人がいた。その声が濡れた土の中でむくりと起き上がる。
「俺たちの業界がずっとやってきたような芝居ってさ、これ演劇って言えるか? 宴会芸だよ」

――目を覚ますと芝居小屋の中にいる。LEDの光の下、豪華絢爛な花魁衣装に歓声が上がる。
旅芝居の舞台はあっけらかんと続いている。世間と隔絶されたかのように。それでも芝居小屋の屋根には、どこかから冷ややかなまなざしが突き刺さっているんだろうか。驟雨の中に目をこらすと、立て札の木片がぼんやりと現れるんだろうか…。

無題

ひとつのセリフが目の前で飄々と披露され、消える。
誰かがバカにしようとも、大衆演劇には芝居がある。舞踊がある。どんなに小さなセンターの宴会場でも、舞台に打ち響く芸がある。

舞台が大好き、という気持ちが体に弾けている若い役者さん。
心深くをすくい取って発露させる女優さん。
年輪豊かな大木のようなベテランさん。
私たちは彼らを知っている。
その親の代も祖父母の代も、長い間、蔑視をするりと抜けてきた芸を。

舞台の上の人々は、相手の役者との掛け合い、そして今日のお客さんの心をどう動かすかという一点に集中している。そこにかけがえのない喜怒哀楽が編み出されるとき、外の無知な嘲りは関係ない。空っぽな優越感など眼中にない。
「川北長次の親分さんは、日の本一の…」(『遊侠三代』)
背後から掛かるセリフに合わせて、座長が花道に踏み出す。間髪入れずに「座長!」とハンチョウが飛ぶ。小さな小屋の中、役者と観客が完全に一緒に浮上する瞬間、胸の奥がたしかに晴れていく。

これぞ庶民のための芸術だとか、演劇の根源がここにあるとか、そんなヨイショではない。
大衆演劇は大衆演劇だ。ずっとそこにあって各土地で人々を楽しませてきた。人々の笑顔、涙、興奮の汗粒の数。それら、はにかんだ歴史の層の一枚一枚が客席に打ち寄せてくる瞬間があって、ああ、この芸能が取るに足らないものであるはずがない…と教えてくれる。

“大衆演劇ってずっと無くならへんと思うんですよ”
(大川良太郎座長<劇団九州男> 2017年5月SPICEインタビュー)

将来も大衆演劇は変わらない顔をして、シレッと、にぎやかに続いていくのだろう。世間の言葉足らずな人々も、いつか旅芝居を真正面から見るだろう。
そのとき、この雨も止む。

雨の中に、こっそり一冊の本をかざす。今から45年前に出版された『旅芝居の生活』 (村松駿吉著、雄山閣)。明治~昭和初期の旅役者の生活をイキイキと描いた名著で、個人的バイブルの一つ。先日久々に読み返したら、ブルリとした文があった。

“旅から旅の放浪生活をしていても、無気力ではない。生きていくためには、どこで、なにをしていても苦しまなければならないことを知るのはしぜんであって、その生きるための、たとえ掛け小屋の舞台ででも、自分の芸に観客が喜怒哀楽の情をあらわにしてくれることに、生き甲斐をおぼえるための努力はする。それが唯一の、そして無二のたのしみなのである。”

唯一の。
そして無二の。

チョン!と芝居が始まるとき。
あの小さな舞台に、晴れ間が差している。

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劇団天華お芝居『林蔵』―この世の“向こう側”―

2017.6.3@大江戸温泉物語ながやま

目がきゅうっと上を向く。
口から血を噴き出して、なにか魂的なものが飛び上がっていく。
その先は?
林蔵が身体を半分突っ込んでいる、はみ出した世界の先には?

澤村千夜座長の演技を観るとき――どきりとするのは、たまに人物が正気をふっと逸してしまうような瞬間があるからだ。『お銀片割れ月夜』で子どもに戻ってしまうお銀ちゃんしかり、『お梶藤十郎』で狂った嗤いを見せるお梶しかり…
感情が尖りすぎて針みたいになって、ゆらゆら揺れる。“こちら”と“向こう側”の間を。
『林蔵』もまた凄絶に死にゆく中で、その狭間に落っこちていくのではないか…?


澤村千夜座長 歌の後の挨拶より

※ラストシーンは避けて書いていますが、少しでもネタバレ嫌な方はご注意下さいませm(_ _”m)

はるばる石川まで行った最大の収穫は、千夜さんの演じる『林蔵』を観られたこと! Twitterやファンの方のブログで、感想を読むたびいいなぁと思っていた。だから石川行き夜行バスの中で、ファンの方がTwitterに載せてくれたお外題表を見て、ついに…!私にもこの日が…!と震えた。

色んな劇団さんが演じられる『林蔵』、私はこれまで観たのは3劇団くらい。老いた哀愁が見どころの一つとはいえ、基本的な人間像は大親分だ。任侠らしく眼光鋭い林蔵には、それぞれの役者さんの美しさがあった。

でも千夜さんのは、かなり人間味が濃くて愛嬌寄り。10年ぶりに島から娑婆へ戻って来た林蔵が、真っ先に会いたがるのは娘・お花。
「俺が島に入ったとき、お花は五つ、六つだったろ、ていうことは今頃十五、十六のはずだ」
娘に会う前にうきうきと髪の毛整えたり。早く娘の待つ上尾に帰りたくって、出された食事を食べるヒマも惜しく、包みにぽいっと放り込んだり(ここ、大変キュート!)。

でも前日の口上で「明日は血反吐を吐いて死にます」と話していた通り(なんたるストレートな物言い)、終盤は惨い展開になる。
林蔵は、屋根屋の親分(澤村龍太郎さん)と子分(澤村悠介さん)に斬り刻まれる。なんとか屋根屋を返り討ちにするも、すでに半死半生。視力が弱まっているのか、立つこともままならない状態で床を這いながら刀を振り回す。このあたりから林蔵の姿は一種の怖さを帯びてくる。

血を吐き出し、体が跳ねて倒れる。死んでしまったんだろうか…?と思いきや。突然、目がぎらっと開き、腹から血をこぼしながら立ち上がる。
「おとっつあん!」
お花(澤村神龍副座長)が帰ってきて、父娘の再会の場面。臓腑の破れた林蔵は、娘に看取られてようやく目を閉じる。
と思ったら観客の眼前で、再びガバッと体が跳ね上がる。そのときの目。きゅっと上を向いて、白目がせり出す。愛しい娘でもなく周囲でもなく、死んでいく者はどこを見ているのか…。

気力だけで立って、崩れて、這って、娘に土産として買ってきた着物の包みをずるりと開く。
「おとっつあん、ほら、似合う?」
お花は涙こらえて、着物を着て見せてやる。娘の姿を見届けて、林蔵は心底嬉しそうに笑う。――そして再び血を吐く。
観客の目に常軌を逸した“向こう側”が見え隠れするのは、血糊を大量に使っている生々しさのためだけではなく…。

「10年の島暮らしで、俺は心身ともに弱っちまった。昔は刀の2、3本ぶちこんでも、ふらついたりはしなかったが…」
中盤、林蔵が子分の勇蔵(澤村神龍副座長・二役)から刀を渡されたとき、重みにふらついてつぶやくセリフ。全体を通して象徴的な言葉だ。

死んでいく林蔵の全身に満ちるのは、弱くなった自身への無念。世話してやった屋根屋に裏切られた憤怒。そして最愛の娘を前にして、お花、と呼びながら生にしがみつこうとする執念。
目をカッと見開いて、青いライトの下――千夜さんの痩せ型の体を突き破っていくのは、この役者さんに独特の過剰なまでの何かだ。歯を噛みしめて、きりきりと、この世から振り落とされていく者の悲憤が尖る。

せめてもの救いは、死の間際に娘がいること。兄弟分の清水次郎長(澤村丞弥さん)や、お蝶(喜多川志保さん)も駆けつける。
今までいずれの劇団さんで観た『林蔵』も、こんな風に愛する者たちに看取られて死ぬ幕切れだった。観ながら、林蔵の人生は悪いものじゃなかったんだと思えるところに芝居としての救いがあった。

だけど天華版の最後の最後は――。
ウ…と細く漏れる林蔵の嗚咽。舞台はこちらの安易な救いをはねのけ、刃物のような孤独に貫かれる (未見の人に体感していただきたいので書くのは避けますが、本能的に怖い演出でした) 。

さて、石川は6/2~6/4で行って参りました。突然の人員減の影響で、劇団としてはつらい状況にあったようでした。『林蔵』で神龍さんが二役されていることからも人手が足りていないのがわかるし、裏方は大変なんてものではないという。

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↑口上では座長が座員さんをねぎらう光景も。志保さんに対して、本来なら大幹部と言うべき立場、出番を終えたら楽屋でお茶でも飲んでいていい方なのに、人が足りないので着付けから幕まで走り回らせてしまって申し訳ない…と。
すると志保さんニッコリ、「立ってる者は親でも使えと申します」。さすが💕

3日間、当たったお芝居は『三浦屋孫次郎』(6/2)『林蔵』(6/3)『三人出世』(6/4)の3本。死に物狂いの舞台裏、けれど表に見える芝居は、なぜだか以前より役の気持ちがすっきりと一本化され、その分濃くなったように感じられた。

これまでやってきた芝居は決して裏切らない。
どんなときも。

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【風の盆恋歌】より(6/2)

追記:
拙ブログにいただくコメントやTwitterの反応を見ると、役者・裏方志望の学生さんや、他ジャンルの演劇経験者の方も時々読んで下さっているようなので…(ありがとうございます!)
劇団天華さんでは座員を募集されているとのことです。千夜座長が口上、Twitterで告知されていました。⇒千夜座長Twitter
特に女優さんが今いらっしゃらないようです。情報共有まで。

【劇団天華 今後の公演予定】
6月 大江戸温泉物語ながやま(石川県)
7月 高槻千鳥劇場(大阪府)

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