【SPICE】大衆演劇の入り口から[其之拾壱]・なぜ立川に劇場を?「立川けやき座」社長さんに会ってきました!オープンから半年

東京の大衆演劇に新しい劇場が仲間入りした、2015年8月1日から早半年。
今の立川けやき座の様子を書かせていただきたくて、どきどきしながら2月上旬に電話をかけた。

勇気を出してみるもので。
けやき座を経営する五光建設の代表取締役・中原誠一郎さんにお話を伺えました!

大衆演劇の入り口から[其之拾壱]・なぜ立川に劇場を?「立川けやき座」社長さんに会ってきました!オープンから半年



――この立川の地に劇場を作ろう!と思われたきっかけは何だったんですか?正直、この時代に劇場を作るって大変だと思うんですが…

中原誠一郎さん(以下、中)  大変、大変、大変(笑)  ただ、健康ランドも劇場も、それだけ専門で経済的なことを考えてやってる人は、大体失敗してると思うんです。もう儲けはチャラか、いっそ赤字でも、他の業種で稼げてる場合はなんとかやれるかなと。

――五光建設の建設業のほうがきちっとされているからできると。

中 私も年齢的にも事業承継する年齢なんで、少し、大衆演劇の文化を守っていこうかなぁと…。元々、このビル自体が五光建設の持ち物だったの。二階のテナントが出て、歯医者さんが入るようになったときに、じゃあ一階をどうしようかって。そこでけやき座を始めようと思ったの。経済的な利益を考えてというより、大衆演劇という文化のため…半分、ボランティアですね(笑) 

⇒全編はこちら!(SPICEサイトに飛びます)

中原社長、立川けやき座の従業員さんたち、お忙しい中ありがとうございました!!
そして常々助けてくれる友人が、今回もまた一緒に来てくれたことにも感謝。
いつもありがとう!

今回の記事を読んでくれた方の中には、大衆演劇ファンでない演劇ファンの方も多くいたようだ。
演劇ファンの方や、地元立川の方。
“劇場”を切り口にすると、普段大衆演劇に接しない方も興味を持ってくれるのがありがたく、嬉しい。

さてさて。
中原社長へのインタビューを通してわかったのは、けやき座は利益を第一には目指していないということ。
大衆演劇という「文化」のため。
お年寄りの暮らしを元気づけるという「社会貢献」のため。
舞台でお客さんを笑顔にするという「人々の幸福」のため。

「一番大事なのは、お年寄りは何か目的がないと外に出たいというのがないですよね。こういうもの(けやき座)があると外に出たいという気持ちが起きて、それだけでも暮らしの活性化になるんじゃないかと」
と笑顔で話してくださった。

広く世のため人のため。
世知辛いこの世の中で、生き馬の目を抜くようなこの業界で、とても嬉しくなってしまうお話だ。
だからなのか、けやき座の廊下や、壁や、客席の間の空気は、穏やかに明るい。

とはいえ、この劇場が広く知られるのはこれから。
昨年9月、けやき座ができて2ヶ月めに乗った橘小竜丸座長(橘小竜丸劇団)は、こんな風に語っていらした。
「新しい劇場は浸透するのに1、2年はかかるでしょうね。外でけやき座どこ?って言われて、ああ、あそこって言われるようになるのに、最低でも1年。まだまだ日にちも、努力も、けっこうかかります。劇場さんのほうが、これを辛抱できるかどうかです」
決して焦らず、どっしりと大きく構えていらした。
⇒橘小竜丸座長&鈴丸座長インタビューはこちら(SPICEサイトに飛びます)

「立川駅のそばに、劇場ができたんだよ」
一人ずつ、知人・友人に話して。
一緒に足を運んで。
昼の部が終われば徒歩5分のミスドで過ごして(笑)、また夜の部へ。

これから、これから。
立川けやき座は、私たちが作っていく小屋。

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“それでもなお”物語―大衆演劇のお芝居の話―

はるか、なつかしい人間の姿に出会うことがある。
お芝居の中でだけ、出会える。
「なぁとっつぁん、親孝行の手始めだ」
たとえば父親の肩を揉む青年のほがらかな笑みだったり。
「迷わず成仏してくれよ!」
やくざ者が仲間の死を悼む、清々しい輪郭だったり。

ああそうだった、心にはこんなひだもあった、人間にはこんな心もあった。
世慣れた旅人が好きなお嬢さんの前では照れる、みずみずしい恋心や。
顔面に醜い火傷を負った男の、地を這うような慟哭も。
小さな舞台をめぐりめぐる喜怒哀楽の様々が、私の体の奥まったところに眠っている目を開いてくれる。

観劇仲間たちと集まれば、それぞれが観た芝居の感想は尽きることがない。
「あの劇団でよく観る、セリフなしで表情とか動作だけで感情を表す演出が好きなの」
「こないだ観た芝居では、お盆っていう道具の使い方がとっても上手で。二人の間のお盆をこっちに引き寄せたりあっちにやったりするのが、二人の心を表してるみたい」
「クライマックスの場面、座長のあの表情が、ああ、人を殺してしまった!っていう人間の素朴な恐怖だったんだよね」
心にいつまでも取っておきたい風景は、いくつも、いくつも。

そんな大衆演劇の舞台は、しかしながら、現実であり生活であるという。

「とにかく毎日回すのに必死で、やりたいこととか考える余裕がない」
「あの芝居は好きとかこの芝居は嫌いとか、言っていられませんからね…」
役者さんのつぶやきを時折耳にすると。
お芝居素晴らしかった!と、何も知らずに、はしゃいでいる我が身ののん気さを思い知る。
近いように見える舞台と客席は、実はどこまでも遠くて。こちらには週に一、二度のお楽しみでも、彼らにとっては毎日のお仕事。
商業演劇やいわゆる伝統芸能に比べれば、時間もなく、人手もなく、余裕もない。舞台裏では音響をし、照明をし、衣装を出し入れし、自分たちだけで一日回しきらなくてはならない通常業務。

そんな舞台の上に立っている人々について、耳にべたついてくる話もたくさん。役者さんには付き物のお金の苦労や体の苦労、立場の苦労に血縁の苦労、そして玉虫色の噂、噂…。それらがすべて知られている客席に、彼らは今日も剥き身で立つ。
その胸に貼りつけられる現金。諭吉さんがねっとり扇を開く。生きていくために。

ああ生きていくって大変!生きていくってしんどい!実際、疲れ果てているのが隠しきれない舞台だって何度か出くわした。

舞台にあるのは、現実と、現実と、また現実…?
それでは、物語はどこで果てるのだろう。
芝居は、どこへ消えるのだろう。

「俺のこの身体が舎利になっても、銭はなんとかいたしやす!」
一張羅の着物も売り飛ばして、乞食同然の男が叫んでいる。逢春座の昨年12月の大島劇場公演。神楽良さん演じる小川勝五郎。極貧の勝五郎は、それでも恩あるお蝶姐さんの病を治さんとする。

神楽良さん(2015/12/13)


涙声で胸を叩いて、“俺のこの身体が舎利になっても”。
恩人の苦しみを目にすれば、自分の身を投げ出して這いつくばっても恩に報いる。人間の最も尊い側面だと思う。
“生活”の前に。“現実”の前に。
この瞬間、たしかに舞台と客席で分け合った、小川勝五郎の真心はどこへ消えよう?

生活だからこそ、毎日、旅役者である彼らは演じる。日々の糧として、演じ続ける。
やくざ者として股旅装束に身を包み、侍として斬り合いをし、浪花の商人として舞台でソロバンを弾いてみせ、悪党として闇討ちの小刀を握り、尽くす妻として夫に膝をつき、芸者として哀しく微笑む。
「お芝居をするってことは、時代を超えて旅をしてるようなものだし…演じる側にもやっぱり救いになるんじゃないのかなぁ」
友人の一人はそうつぶやいた。

こうだったらいいなぁ、という私の想像にすぎない。
けれど役者さんが自分ではない者になりきるとき、架空の誰かに感情を寄せるとき。
その一瞬だけでも、心は遠い風景を見やしないか。
生きることの痛みをくるみとる、寸秒の飛翔がありはしないか…?


「芝居の役になってる人は、もうその人じゃなくて、役の人物に見えちゃうんで」
と、サラリと話す座長さんがいた。
「舞台にでると泣くときは本当に泣いちまうんだ。するとそれはお客にも通じてお客もふわーっとくるんだな」
と語る大ベテランの役者さんもいた。
お芝居良かったです、とお客さんが褒めるなり、
「いや、今日は世界に入りきらんかった!」
と間髪入れずに言った座長さんもいた。

彼らが芝居の世界に“入りきる”とき、私たち客席も同じ風景へ飛べる。登場人物と一緒に泣いて、一緒に笑う。
泣きの芝居では、前や横や後ろからも、ぐすっと鼻をすする音が聞こえてくる。客席にもたくさんの人生がよぎる。私みたいな下っ端会社員も、学生さんも、主婦の方も、年金暮らしの人も。
仕事や病気や家族や、それぞれの口には出せない苦労が狭い劇場内でむせ返るようだ。

それでも。
「お前の持ってる不幸せを、これから二人で引きずって生きていこうじゃねえか!」(『下北の弥太郎』)
この世のへりにつかまっていれば、降ってくる物語がある。こんなところにもまだ、笑みかける光がある。

大手の商業演劇のような潤沢な人手がなくても上等だ。伝統芸能のような立派な舞台装置がなくても十分だ。
毎日、ただ毎日芝居をして生きてきた、あくのわき零れる顔つきが。手足が。涙が。セリフが。ヤマ上げが。
私たちの心の深奥に開ける、ふるさとへ連れて行ってくれる。

ね、一緒にあの芝居に泣いたよね、笑ったよね、人生の薬になったよね。
だから舞台の上も下も、お芝居の中でまた会いましょう。一番近いところで、人間の顔で会いましょう。
そしてみんなで、生きていかなくては。

お金の苦労や体の苦労、立場の苦労に血縁の苦労、そして玉虫色の噂の中で。
何の役にも立たない、笑われそうな消えもの。
それでもなお、全国の劇場で、センターで、毎日紡がれるお芝居が。
“物語”が、今日も誰かを救っている。

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劇団天華お芝居「三浦屋孫次郎」―数珠を握る手―

2016.1.16 昼の部@京橋羅い舞座

『三浦屋孫次郎』って任侠のお話だと思っていた。
盃交わした義理が何より重くて、いつも死を見据えて、一家のために潔く自分の命を捨てる。そんな常人とは異なる常識を持った、ダークヒーローの世界。

でも劇団天華の『三浦屋孫次郎』は、“私たち”にとても近かった。千夜さん演じる孫次郎には、元々は旅籠のボンボンだったという設定が最後まで効く。
悪い拍子に、人生があるべきところから外れてしまって。
暗いところに落ちてしまって。
元いたところの光をじっと見上げながら、いつかやってくる死を待ちわびる――

澤村千夜座長(1/16舞踊ショー)


京都でお仕事があったのをいいことに、仕事を終えた後、足はサクサクと京橋へ!羅い舞座はお外題をマメにブログで発表してくれるので、16日の昼は『三浦屋孫次郎』と知って心待ちにしていた。

飯岡助五郎一家に草鞋を脱いだ旅人・孫次郎(澤村千夜座長)は、笹川繁蔵(澤村神龍副座長)を殺すよう依頼される。気が進まないながらも、一宿一飯の恩義を受けたがゆえ、繁蔵を夜道で斬る。
そこに現れるお侍・昇天の徳次郎(澤村丞弥さん)。飯岡の用心棒だという。
「孫、わしはお前を殺すように命じられてきた」
助五郎は孫次郎をも邪魔に思い、罠にハメたのだった。孫次郎は、このままでは親の敵として笹川の子分たちに殺される。しかし飯岡に帰っても結局殺される。
「孫。その笹川繁蔵の首、どこへ持っていったらいいと思う?」
徳次郎の問いかけに、孫次郎はしばし逡巡して。
「決めた。この首、笹川へ持っていく」
大きくうなずく徳次郎。

丞弥さん徳次郎が繰り返し「孫」と呼ぶ声が、とても親しげなのが印象に残る。徳次郎は本来なら飯岡に忠実でならなければならない身だけど、なぜ孫次郎を助けたのか…その理由づけは後半に出て来る。
花形のシンパシ―のある演技が素敵でした!

澤村丞弥さん(1/16舞踊ショー)
CIMG5688.jpg

孫次郎が笹川一家に首を持っていくと、当然親の仇として若い衆に殺されかかる。それを上ずった声で懸命に制す。
「一宿一飯の恩義だって言ってんだろ!」
お、お…?ちょっと驚いた。視線は落ち着かないし、身体は強張っているし、明らかに殺されるのを怖がっている演技。この孫次郎は、いわゆるやくざ者の造形じゃないみたいだなぁと思っていたら。
「俺は、元々は旅籠屋のせがれだ。蝶よ花よと、そりゃあ大事に大事に育てられた…」
けれど両親が多額の借金を押しつけられたことから、人生が狂い始めた。
「ある朝、二親様は梁に縄を引っかけて、首をくくってあえない最期…旅籠は人手に渡っちまった。俺は見よう見まねで長ドス一本ぶち込んで」

舞台中央に腰を下ろした千夜さんの居住まいには。完全に殺気立った笹川の若い衆と比べて、やくざの世界との“ズレ”、“戸惑い”がどこか漂っているようで。笹川繁蔵の首に丁寧に手を合わせ、
「半端なやくざの俺ですが、あの世へ行ったらやくざのイロハ教えてくだせえ…」
長い年月を経てなお、やくざになりきれない――その哀しみは、ストーリーが進むにつれ、核として剥き出しになってくる。

笹川一家と孫次郎一人の喧嘩の前、自ら刀をつぶす孫次郎。そこへひょっこり、徳次郎が現れる。
「わしと兄弟分にならんか、孫。わしとお前はよく似ているのだ」
いきなり兄弟分?と思うのだけど、聞けば、徳次郎もかつては大きな旗本の家に生まれたという。大事に育てられたものの、家が没落し、今はやくざの用心棒にまで身を落とした。

ああそっか、と納得した。孫次郎と徳次郎、二人とも、本来は斬った張ったの世界で生きている人間ではないんだ。侍と旅人、今の立場は違えど、背負ってきた悲しみの種類が近いんだ。

「孫、この喧嘩でお前が死んだら、兄弟分のわしが骨を拾ってやる」
「そうか…俺は死ぬのは構わねえ、だが亡骸は野ざらしになるしかねえかと思っていたが、お前さんが骨を拾ってくれるってのか…」
よく似た過去の二人が、初めて心を通わすのは弔いの約束。

「親なし、子なし、帰る家なし…」
千夜さんの誰に聞かせるともなしの、独り言のような。このつぶやきが、孫次郎の心の有様を一番ハッキリとわかる形で観客に差し出す。足は地面についていても、心は天を見上げている。失われた幸福をずっと見つめている。
孫次郎がふいに夜空を見上げて、
「星が、おっかさんの下に、導いてくれっかね」
隣の徳次郎が温かに応える。
「ああ、必ず導いてくれるとも」

そして喧嘩の場面。孫次郎は死装束のように白に身を包み、背には経文、首には長い数珠がじゃらり。刀はつぶれているし、多勢に無勢なので、当然ほぼ一方的に押される。すると孫次郎の手はだんだん刀を離れ、首に下げた数珠を探る。心は少しずつ現世を離れ、あの世に発とうとする。

ふいに千夜さんが殺陣を抜けて、ひとり花道に駆け出す。しばしの静謐。視線は上方。何かを探すように、食い入るように空を見上げる。手を数珠にやり、ぐ、ぐ、ぐ、と握りしめる。

ここっっ!!(フォント大で叫ぶ)

全編通してこの場面が最も焼きついているのは、“孫次郎の心が完全に彼岸に行った”瞬間だったから。
この場面の後、殺陣の中に戻った孫次郎は、刀を捨てる。斬られ、刺され、足蹴にされながら、地を這いずって数珠だけを握りしめる。肉体はまだこの世にあっても、心は二親の待つあの世へ、失った過去へ、ひたすらに向かっていく。
「おっかさん…!!」
最期に叫んで、数珠に指を食い込ませて、絶命する。

死装束にまつわる昏さが、芝居中の舞台にうっすらたなびいて、幕が下りた後も胸の底に沈んでいる。
“おっかさんの下に”
かつての温かな光をまなうらに見ながら生きた。
置き忘れたものを振り返りながら、それでも生きた。

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