上田久美子さん演出オペラを観て、一人の大衆演劇ファンが快哉を叫んだ話
『田舎騎士道』『道化師』2/5(日)東京芸術劇場
※3月の愛知公演も終わったので、演出をがっつりネタバレします※
演出家名やオペラの題で検索して来てくださった方も、いるかもしれないので。この文を書いている人は、ファン歴11年の大衆演劇ファンです。
普段は大衆演劇観劇を中心に生きていて、演出家・上田久美子さんの凄さは、宝塚好きな友人たちから教えてもらって知った。映像で『月雲の皇子』『星逢一夜』『神々の土地』『翼ある人びと』『桜嵐記』を観た。感涙ポイントを押さえた脚本と、世界をまるっと俯瞰する知性に、気持ちよく打ちのめされた。
だから今回のオペラ演出のニュースを読んで、人生で初めてオペラのチケットを取った。大衆演劇の劇団(花柳願竜劇団)に、上田さん自身が泊まり込み取材して、制作に生かされているという。行くしかない!
『田舎騎士道』『道化師』。約3時間、すっっごく楽しかった。そして、オペラ+舞踊という形に映し出されることで、自分が好きでずっと観てきた、大衆演劇への解像度がさらに上がった。大衆演劇が『道化師』の直接のモチーフであることに加えて、大衆演劇が描き続けている本質の一つ、“人間の寂しさ”が嵌めこまれている舞台だった。

舞台撮影OKだったカーテンコールより。左から3人目の帽子の方が上田久美子さん。
『田舎騎士道』
前半に上演されたこちらで一番印象的だったのは、聖子だけが自分の提灯を差し出しても、だんじり祭に加えてもらえない場面。教会に入れないシチリアのサントゥッツァと、だんじりに加われない大阪の聖子が重なって、地域コミュニティからはじき出される、強烈な孤独が二人の演者の身体にまつわる。
聖子の提灯がぽっかりひとつ欠けたまま、だんじりが上がっていく。アッと思った。大衆演劇の定番、“祭りの夜”を視覚化してもらった気がした。
大衆演劇のお芝居では、人生が砕け散るような不幸が、やたら“祭りの夜”に起きる。父の目の前で寂しさを抱えて死んでゆく息子とか(『唄祭り やくざ仁義』)、兄弟の永遠の別れとか(『人生吹き溜まり』)、裏切った恋人への復讐劇とか(『お糸新吉』)。祭り囃子=不幸フラグ。
しかしほとんどの場合、祭りは筋も演劇的表現にも関係ない。祭り囃子が一瞬聞こえて、「今日は祭りだなあ」みたいな台詞が入る程度に留まる。だから大衆演劇を観始めた当初は、どうして祭りの夜と悲劇が結びつくのが約束事なんだろう、と思っていた。次第に、その日がハレの日であるほど、悲しさが引き立つからかと思うようになった。
みんな楽しそうなのに、みんな祝福を歌うのに、自分だけが入れない。祭り囃子に追いつかない。

チラシに書かれた上田さん作のコピーは、「みんなさみしいねん」。その言葉を通して、大衆演劇が照射する。
ひとつだけ欠けた、だんじりの光景は、初めて私が出会うことができた、“祭りの夜”の具象だった。
『道化師』
こちらは、もろに大衆演劇の劇団と大衆演劇文化をモチーフにしている。まず背景の絵が出てきた瞬間、これは、オーエス劇場(大阪市西成区)周辺かな…?!とだいぶテンションが上がった。他にもパリアッチョ=巴里亜兆(ぱりあちょう)劇団で大ウケしたし、23時開演ってナイトショーもナイトショーすぎるよ!(笑)とか、終始ウケっぱなしだった(20時~とかのナイトショーはあります)。
そして劇団の描写以上に、自分がそこに“大衆演劇”を見つけたのは、劇団ファンである群衆の歌だった。「これしか寂しさを吹き飛ばしてくれるものないねん」「見て 見て 私ら生きてるんやで」という関西弁字幕。阪神応援スタイルに身を包んで、歌い上げるオペラ歌手の皆さん。
大衆演劇の客席と舞台は、極めて近い。『道化師』劇中で、やってきた劇団一行に地元のファンが話しかけたり、役者とファンが一緒に写真を撮ったりしているけど、リアルにあのぐらい近い(3年前からはコロナでかなり自粛中)。接触面だけでなく、舞台進行自体が観客と一体になって行われる。舞台と客席で交感し合った興奮が、瞬間的にはじき出す何かがある、と私は思う。物語を浴びたな~と感じると同時に、人間を浴びたな~~と感じて、大衆演劇の芝居小屋を後にしている。
「見て」「見て」と群衆の歌は響く。
阪神タイガースを応援しながら、大衆演劇を応援しながら、実は群衆の側が、自分の命を見つけてほしいのだ。
『道化師』の巴里亜兆劇団のファンも、あの日の東京芸術劇場の二階席も、私がいつも座っている大衆演劇の芝居小屋の客席も、私も。
さみしくてさみしくて、熱狂がなくては、とても正気ではいられない。
――だって、生きてるから…。
「喜劇は終わった」と叩きつけられる人形。舞台が終われば、群衆はまた、バラバラの一人ぼっちである。

カーテンコールのときも、そのまま打ち捨てられていた人形。なんだか可哀想な風情。
今回のお仕事が終わっても、上田さんには大衆演劇に関わり続けてほしいと心底思う。
大衆演劇の劇団への泊まり込み取材についてはこちらを参照しました。
商業主義に消費されない、人間の新淵に迫る舞台を 演出家・上田久美子
今回の企画公式・全国共同制作オペラのnoteに掲載されている、上田さんの対談シリーズも楽しいです。個人的には一番面白かったのは、「劇場の排他性」に話題が及んだ回。
ウエクミ対談シリーズ:竹中香子&太田信吾【後編】いろんな仕掛けは、誰のため?
※3月の愛知公演も終わったので、演出をがっつりネタバレします※
演出家名やオペラの題で検索して来てくださった方も、いるかもしれないので。この文を書いている人は、ファン歴11年の大衆演劇ファンです。
普段は大衆演劇観劇を中心に生きていて、演出家・上田久美子さんの凄さは、宝塚好きな友人たちから教えてもらって知った。映像で『月雲の皇子』『星逢一夜』『神々の土地』『翼ある人びと』『桜嵐記』を観た。感涙ポイントを押さえた脚本と、世界をまるっと俯瞰する知性に、気持ちよく打ちのめされた。
だから今回のオペラ演出のニュースを読んで、人生で初めてオペラのチケットを取った。大衆演劇の劇団(花柳願竜劇団)に、上田さん自身が泊まり込み取材して、制作に生かされているという。行くしかない!
『田舎騎士道』『道化師』。約3時間、すっっごく楽しかった。そして、オペラ+舞踊という形に映し出されることで、自分が好きでずっと観てきた、大衆演劇への解像度がさらに上がった。大衆演劇が『道化師』の直接のモチーフであることに加えて、大衆演劇が描き続けている本質の一つ、“人間の寂しさ”が嵌めこまれている舞台だった。

舞台撮影OKだったカーテンコールより。左から3人目の帽子の方が上田久美子さん。
『田舎騎士道』
前半に上演されたこちらで一番印象的だったのは、聖子だけが自分の提灯を差し出しても、だんじり祭に加えてもらえない場面。教会に入れないシチリアのサントゥッツァと、だんじりに加われない大阪の聖子が重なって、地域コミュニティからはじき出される、強烈な孤独が二人の演者の身体にまつわる。
聖子の提灯がぽっかりひとつ欠けたまま、だんじりが上がっていく。アッと思った。大衆演劇の定番、“祭りの夜”を視覚化してもらった気がした。
大衆演劇のお芝居では、人生が砕け散るような不幸が、やたら“祭りの夜”に起きる。父の目の前で寂しさを抱えて死んでゆく息子とか(『唄祭り やくざ仁義』)、兄弟の永遠の別れとか(『人生吹き溜まり』)、裏切った恋人への復讐劇とか(『お糸新吉』)。祭り囃子=不幸フラグ。
しかしほとんどの場合、祭りは筋も演劇的表現にも関係ない。祭り囃子が一瞬聞こえて、「今日は祭りだなあ」みたいな台詞が入る程度に留まる。だから大衆演劇を観始めた当初は、どうして祭りの夜と悲劇が結びつくのが約束事なんだろう、と思っていた。次第に、その日がハレの日であるほど、悲しさが引き立つからかと思うようになった。
みんな楽しそうなのに、みんな祝福を歌うのに、自分だけが入れない。祭り囃子に追いつかない。

チラシに書かれた上田さん作のコピーは、「みんなさみしいねん」。その言葉を通して、大衆演劇が照射する。
ひとつだけ欠けた、だんじりの光景は、初めて私が出会うことができた、“祭りの夜”の具象だった。
『道化師』
こちらは、もろに大衆演劇の劇団と大衆演劇文化をモチーフにしている。まず背景の絵が出てきた瞬間、これは、オーエス劇場(大阪市西成区)周辺かな…?!とだいぶテンションが上がった。他にもパリアッチョ=巴里亜兆(ぱりあちょう)劇団で大ウケしたし、23時開演ってナイトショーもナイトショーすぎるよ!(笑)とか、終始ウケっぱなしだった(20時~とかのナイトショーはあります)。
そして劇団の描写以上に、自分がそこに“大衆演劇”を見つけたのは、劇団ファンである群衆の歌だった。「これしか寂しさを吹き飛ばしてくれるものないねん」「見て 見て 私ら生きてるんやで」という関西弁字幕。阪神応援スタイルに身を包んで、歌い上げるオペラ歌手の皆さん。
大衆演劇の客席と舞台は、極めて近い。『道化師』劇中で、やってきた劇団一行に地元のファンが話しかけたり、役者とファンが一緒に写真を撮ったりしているけど、リアルにあのぐらい近い(3年前からはコロナでかなり自粛中)。接触面だけでなく、舞台進行自体が観客と一体になって行われる。舞台と客席で交感し合った興奮が、瞬間的にはじき出す何かがある、と私は思う。物語を浴びたな~と感じると同時に、人間を浴びたな~~と感じて、大衆演劇の芝居小屋を後にしている。
「見て」「見て」と群衆の歌は響く。
阪神タイガースを応援しながら、大衆演劇を応援しながら、実は群衆の側が、自分の命を見つけてほしいのだ。
『道化師』の巴里亜兆劇団のファンも、あの日の東京芸術劇場の二階席も、私がいつも座っている大衆演劇の芝居小屋の客席も、私も。
さみしくてさみしくて、熱狂がなくては、とても正気ではいられない。
――だって、生きてるから…。
「喜劇は終わった」と叩きつけられる人形。舞台が終われば、群衆はまた、バラバラの一人ぼっちである。

カーテンコールのときも、そのまま打ち捨てられていた人形。なんだか可哀想な風情。
今回のお仕事が終わっても、上田さんには大衆演劇に関わり続けてほしいと心底思う。
大衆演劇の劇団への泊まり込み取材についてはこちらを参照しました。
商業主義に消費されない、人間の新淵に迫る舞台を 演出家・上田久美子
今回の企画公式・全国共同制作オペラのnoteに掲載されている、上田さんの対談シリーズも楽しいです。個人的には一番面白かったのは、「劇場の排他性」に話題が及んだ回。
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2022年 私のお芝居3本~生きてる女
“女が死ぬ。プロットを転換させるために死ぬ。話を展開させるために死ぬ。カタルシスを生むために死ぬ。それしか思いつかなかったから死ぬ。ほかにアイデアがなかったから死ぬ。というか、思いつきうる最高のアイデアとして、女が死ぬ。”
松田青子『女が死ぬ』(中央公論新社)
今年、人にお勧めしていただいて読んだ小説の冒頭です。何度読んでも、ハッと打たれる名文です。それはこの文章が、長年「ドラマティック」とされてきた物語の力学から、涙のベールをはぎ取り、「記号」の姿を顕わにしてしまったからだと思います。
妻や恋人が死ぬことで、怒れる主人公(男)が真の強さを発揮するというストーリーは、世界中に溢れています。大衆演劇の演目の中にも、たくさん。このストーリーには根強い人気がありますし、とてもよくできていて、中には自分もその完成度が好きなお芝居もあります。
でも、劇中で女性役の性格や、こだわりや、信念が描かれることなく、ただ主人公に尽くしてくれる女が死ぬという「記号」的役割に終わってしまうと、物語の熱狂からふと冷めてしまう。あえて穿った言葉を使うと、女性役が復讐の炎を焚くための「薪」のように見えることがあるのです。
でも、大衆演劇には変化を恐れない人々によって、いつも新しい風が吹いています。昨年はベスト芝居3を選んだら、自分の中では「男らしさ」をめぐるラインナップになっていました。今年は心に刺さった3本を選んだら、「女」をめぐるラインナップでした。
生きている女の、話をしましょう。
※注意:ここから先は、わりとしっかりネタバレを含みます。
※各芝居の「結末」「意表をついた演出」には触れません。
↓↓↓
1本目 劇団美山『木蓮』5/28@篠原演芸場
里美京馬副座長襲名&誕生日公演
原作:三日月姫さん 潤色:渡辺和徳さん 企画:日本文化大衆演劇協会「新風プロジェクト」

2022年の大衆演劇界を振り返ると、「新風の始まった年」と後から言われたりするのかな。篠原演劇企画さんによる「新風プロジェクト」(略して「新風」)では、完全書き下ろしの新作芝居の数々を楽しみました。劇団、出演者、原作者、潤色者それぞれのすごさはもちろん、勇気ある箱組みが用意されなければ、成立しなかった芝居たちです。「新風」成立に関わる人々に、あらためて敬意を示します。
『木蓮』は、一般公募脚本の中から選ばれた作品。原作のどんな苦労の中でも希望の差す方へ歩いていこうとする力強さと、潤色の鮮やかな言葉が立ち上げる世界に、今年一爆泣きしました(比喩でなくタオルが湿るまで泣いた)。
このお芝居で私が新鮮に感じたのは、主人公ごん太(里美京馬副座長)と女性キャラクターおきよ(中村美嘉さん)の関係性です。おきよは居酒屋を営みながら、常連客であるごん太のことを気に掛けます。ごん太はおきよに亡き母の面影を重ねていますが、母代わりではなく、やっぱり他者の距離があります。ごん太とおきよは、お互いの素性も詳細には知りません。ただ、居酒屋という限られた時間、限られた空間の労わり合いがすべて。
おきよは、ごん太に命がけの意見をします。演じた美嘉さんの真摯さが光っていました。下手にごん太、上手におきよ。そのときの場面、「男女」ではなく、「人間同士」のただ二人として向き合った絵が、私の目に焼き付いています。
お芝居全体の尺から見ると、おきよの登場シーンは決して長くありません。けれどごん太や、おきよの息子・新吉(こうた座長)が母を思い出す様から、おきよが居酒屋で料理したり接客したり、生き生きと存在していたことが蘇ってくる、温かな構造を持っていました。


当日のラストショー
ごん太役の京馬副座長は、口上では奔放なキャラクターで面白い一方、彼のお芝居は「役にどう向き合うか」「客席にどう伝えるか」が観れば観るほど丁寧だなぁと感じます。「京馬祭り」は構成からして観客へのサービス精神の固まりで、めちゃくちゃ楽しい!
『木蓮』上演時の感想はこちら
2本目 劇団美松『桜姫東文章~桜花繚乱愛憎輪廻』7/24@浅草木馬館
今年このお芝居を見た後、「憑りつかれた」と感じました。市川華丸さん演じる桜姫に憑りつかれてしまった。

6/19お誕生日公演での一枚。
かどわかされて庵室にやって来た桜姫は、ひとりになるとすぐ、鏡を見て髪を整え始めます。自分は人生初の『桜姫』が美松さん版だったので、桜姫の行動に(誘拐されてる状況ですごいな)と思ったのですが、この場面の華丸さんは痺れるほど魅力的でした。
舞台の上に、鏡をのぞき込む桜姫ひとり。鏡の中の“私”ひとり。身分がなくなっても、売られても、周りが粗末な庵でも、実は後ろに清玄の死体が置かれているグロテスクな状況でも、“私”を侵すことはできません。
――私、まず、好きな人に会うために髪を直したいです。そうします。
華丸さんは劇団菊のメンバーで、美松さんに参加中です。その女形の吸い込まれる魅力は、なにか言葉を探そうとしても、あのひんやりした笑みに溶かされて、最終的に華ちゃん可愛い(><)しか言えなくなってしまう、驚異の18歳。
また、演出は松川小祐司座長でした。清玄/権助二役も務めていました。

小祐司座長の演出は、1月のお誕生日公演の『日本橋』や7月の木馬館の『鶴八鶴次郎』も観て、言葉や所作をじっくり味わう時間を与えてくれるのが、心地良かったです。きっと自分の作家性ゴリゴリにすることもできるのだろうけど、ちゃんと観客の様子を見て、徐々に物語に入って来るのを待ってくれる。『桜姫』も、華丸さん桜姫・座長の清玄/権助に絞ってクローズアップしてくれるので、お話が散らばらず、濃厚な桜色の世界が抽出されていきました。
上演後一週間は余韻の中でボーーーッとしつつ、渡辺保さんの「桜姫と世界」(『演劇界』2021年7月号)を読んだりしていました。あの日木馬館の舞台に広がった世界を、自分の体から離すのが惜しかったんだと思います。新年にも大衆演劇とは別ジャンルの『桜姫』を観に行く予定があり、自分にとって『桜姫東文章』の入り口になった劇団美松版には、とっても感謝しています。

華ちゃん可愛い(><)
3本目 劇団美鳳『涙に濡れた峠道~父と娘と酒と傘』11/27@ゆあみもさく座
奇抜なキャラクターや設定を出さなくても、場面の一枚、台詞の一つを研ぎ澄ませると、お芝居はこんなにも心に沁みるものになる。
美鳳さんの新作はそのことを教えてくれて、打ちのめされた一本でした。

脚本を書かれた一城静香さん
島抜けしてきた男(紫鳳友也座長)が帰ってきたものの、娘(一城静香さん)の心に傷がつくから、親子名乗りはしないでほしいと妻の父に懇願されます。真実を明かさないまま、男は娘とのひとときを過ごそうとしますが…。
娘は年頃と言われる年齢になっていますが、頭は幼い子どものまま。でも、男が食事をしているのを見て「おとっつあんのお茶碗を使ったらダメ」と激しく怒ったり(義父を実の父だと思っている)、父娘の時間を作ってやろうとする周りの大人たちの心遣いで、酒を持って行ってほしいと頼まれると、「重たいから嫌」と渋面を見せたり。たとえ頭が他の娘たちと違ったって、彼女にはちゃんとプライドがある。この女の子を「無垢」という記号で済ませないぞ、という筆の意志を感じる描写でした。
終盤、父と娘が二人きりで向き合います。ここの台詞のやり取りがめちゃくちゃ泣ける。泣けるけど、どこか清々しい。雨の描写や酒の重みがありありと伝わってくる、演技も秀逸でした。あくまで軽やかに、楽しげに花道を駆けていく静香さんの姿は、「父の悲劇」の花飾りとしての娘像を脱け出して、彼女の人生がこれからも続いていくことを思い描けるものでした。
静香さんの脚本、私はこの作品が初めてだったのですが、他にもたくさんの名作があると聞いています。また是非に、拝見したいと思っています。

紫鳳友也座長。ザ・美声の持ち主。芝居冒頭で、島で見ていた娘の夢について語るときの声、ドラマの立ち上がりにふさわしい立体感でした。
3本とも、2022年に各劇団の「新作」として初めて舞台にかかったお芝居。そこに描かれた女役たちがパワフルだったことは、何でもありな大衆演劇の、無限の可能性を示しているように思えてなりません。
泣いている女の、話をしましょう。
笑っている女の、話をしましょう。
怒っている女の、話をしましょう。
同時に男も、どちらでもない性別も、舞台でのあり方が広がっていくことを願いながら。
皆様、良いお年を!!
ちょこっと似たテーマで今年6月に書いた文
女は、本当は ―6月の『ふるあめりか』と『雪の渡り鳥』―

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松田青子『女が死ぬ』(中央公論新社)
今年、人にお勧めしていただいて読んだ小説の冒頭です。何度読んでも、ハッと打たれる名文です。それはこの文章が、長年「ドラマティック」とされてきた物語の力学から、涙のベールをはぎ取り、「記号」の姿を顕わにしてしまったからだと思います。
妻や恋人が死ぬことで、怒れる主人公(男)が真の強さを発揮するというストーリーは、世界中に溢れています。大衆演劇の演目の中にも、たくさん。このストーリーには根強い人気がありますし、とてもよくできていて、中には自分もその完成度が好きなお芝居もあります。
でも、劇中で女性役の性格や、こだわりや、信念が描かれることなく、ただ主人公に尽くしてくれる女が死ぬという「記号」的役割に終わってしまうと、物語の熱狂からふと冷めてしまう。あえて穿った言葉を使うと、女性役が復讐の炎を焚くための「薪」のように見えることがあるのです。
でも、大衆演劇には変化を恐れない人々によって、いつも新しい風が吹いています。昨年はベスト芝居3を選んだら、自分の中では「男らしさ」をめぐるラインナップになっていました。今年は心に刺さった3本を選んだら、「女」をめぐるラインナップでした。
生きている女の、話をしましょう。
※注意:ここから先は、わりとしっかりネタバレを含みます。
※各芝居の「結末」「意表をついた演出」には触れません。
↓↓↓
1本目 劇団美山『木蓮』5/28@篠原演芸場
里美京馬副座長襲名&誕生日公演
原作:三日月姫さん 潤色:渡辺和徳さん 企画:日本文化大衆演劇協会「新風プロジェクト」

2022年の大衆演劇界を振り返ると、「新風の始まった年」と後から言われたりするのかな。篠原演劇企画さんによる「新風プロジェクト」(略して「新風」)では、完全書き下ろしの新作芝居の数々を楽しみました。劇団、出演者、原作者、潤色者それぞれのすごさはもちろん、勇気ある箱組みが用意されなければ、成立しなかった芝居たちです。「新風」成立に関わる人々に、あらためて敬意を示します。
『木蓮』は、一般公募脚本の中から選ばれた作品。原作のどんな苦労の中でも希望の差す方へ歩いていこうとする力強さと、潤色の鮮やかな言葉が立ち上げる世界に、今年一爆泣きしました(比喩でなくタオルが湿るまで泣いた)。
このお芝居で私が新鮮に感じたのは、主人公ごん太(里美京馬副座長)と女性キャラクターおきよ(中村美嘉さん)の関係性です。おきよは居酒屋を営みながら、常連客であるごん太のことを気に掛けます。ごん太はおきよに亡き母の面影を重ねていますが、母代わりではなく、やっぱり他者の距離があります。ごん太とおきよは、お互いの素性も詳細には知りません。ただ、居酒屋という限られた時間、限られた空間の労わり合いがすべて。
おきよは、ごん太に命がけの意見をします。演じた美嘉さんの真摯さが光っていました。下手にごん太、上手におきよ。そのときの場面、「男女」ではなく、「人間同士」のただ二人として向き合った絵が、私の目に焼き付いています。
お芝居全体の尺から見ると、おきよの登場シーンは決して長くありません。けれどごん太や、おきよの息子・新吉(こうた座長)が母を思い出す様から、おきよが居酒屋で料理したり接客したり、生き生きと存在していたことが蘇ってくる、温かな構造を持っていました。


当日のラストショー
ごん太役の京馬副座長は、口上では奔放なキャラクターで面白い一方、彼のお芝居は「役にどう向き合うか」「客席にどう伝えるか」が観れば観るほど丁寧だなぁと感じます。「京馬祭り」は構成からして観客へのサービス精神の固まりで、めちゃくちゃ楽しい!
『木蓮』上演時の感想はこちら
2本目 劇団美松『桜姫東文章~桜花繚乱愛憎輪廻』7/24@浅草木馬館
今年このお芝居を見た後、「憑りつかれた」と感じました。市川華丸さん演じる桜姫に憑りつかれてしまった。

6/19お誕生日公演での一枚。
かどわかされて庵室にやって来た桜姫は、ひとりになるとすぐ、鏡を見て髪を整え始めます。自分は人生初の『桜姫』が美松さん版だったので、桜姫の行動に(誘拐されてる状況ですごいな)と思ったのですが、この場面の華丸さんは痺れるほど魅力的でした。
舞台の上に、鏡をのぞき込む桜姫ひとり。鏡の中の“私”ひとり。身分がなくなっても、売られても、周りが粗末な庵でも、実は後ろに清玄の死体が置かれているグロテスクな状況でも、“私”を侵すことはできません。
――私、まず、好きな人に会うために髪を直したいです。そうします。
華丸さんは劇団菊のメンバーで、美松さんに参加中です。その女形の吸い込まれる魅力は、なにか言葉を探そうとしても、あのひんやりした笑みに溶かされて、最終的に華ちゃん可愛い(><)しか言えなくなってしまう、驚異の18歳。
また、演出は松川小祐司座長でした。清玄/権助二役も務めていました。

小祐司座長の演出は、1月のお誕生日公演の『日本橋』や7月の木馬館の『鶴八鶴次郎』も観て、言葉や所作をじっくり味わう時間を与えてくれるのが、心地良かったです。きっと自分の作家性ゴリゴリにすることもできるのだろうけど、ちゃんと観客の様子を見て、徐々に物語に入って来るのを待ってくれる。『桜姫』も、華丸さん桜姫・座長の清玄/権助に絞ってクローズアップしてくれるので、お話が散らばらず、濃厚な桜色の世界が抽出されていきました。
上演後一週間は余韻の中でボーーーッとしつつ、渡辺保さんの「桜姫と世界」(『演劇界』2021年7月号)を読んだりしていました。あの日木馬館の舞台に広がった世界を、自分の体から離すのが惜しかったんだと思います。新年にも大衆演劇とは別ジャンルの『桜姫』を観に行く予定があり、自分にとって『桜姫東文章』の入り口になった劇団美松版には、とっても感謝しています。

華ちゃん可愛い(><)
3本目 劇団美鳳『涙に濡れた峠道~父と娘と酒と傘』11/27@ゆあみもさく座
奇抜なキャラクターや設定を出さなくても、場面の一枚、台詞の一つを研ぎ澄ませると、お芝居はこんなにも心に沁みるものになる。
美鳳さんの新作はそのことを教えてくれて、打ちのめされた一本でした。

脚本を書かれた一城静香さん
島抜けしてきた男(紫鳳友也座長)が帰ってきたものの、娘(一城静香さん)の心に傷がつくから、親子名乗りはしないでほしいと妻の父に懇願されます。真実を明かさないまま、男は娘とのひとときを過ごそうとしますが…。
娘は年頃と言われる年齢になっていますが、頭は幼い子どものまま。でも、男が食事をしているのを見て「おとっつあんのお茶碗を使ったらダメ」と激しく怒ったり(義父を実の父だと思っている)、父娘の時間を作ってやろうとする周りの大人たちの心遣いで、酒を持って行ってほしいと頼まれると、「重たいから嫌」と渋面を見せたり。たとえ頭が他の娘たちと違ったって、彼女にはちゃんとプライドがある。この女の子を「無垢」という記号で済ませないぞ、という筆の意志を感じる描写でした。
終盤、父と娘が二人きりで向き合います。ここの台詞のやり取りがめちゃくちゃ泣ける。泣けるけど、どこか清々しい。雨の描写や酒の重みがありありと伝わってくる、演技も秀逸でした。あくまで軽やかに、楽しげに花道を駆けていく静香さんの姿は、「父の悲劇」の花飾りとしての娘像を脱け出して、彼女の人生がこれからも続いていくことを思い描けるものでした。
静香さんの脚本、私はこの作品が初めてだったのですが、他にもたくさんの名作があると聞いています。また是非に、拝見したいと思っています。

紫鳳友也座長。ザ・美声の持ち主。芝居冒頭で、島で見ていた娘の夢について語るときの声、ドラマの立ち上がりにふさわしい立体感でした。
3本とも、2022年に各劇団の「新作」として初めて舞台にかかったお芝居。そこに描かれた女役たちがパワフルだったことは、何でもありな大衆演劇の、無限の可能性を示しているように思えてなりません。
泣いている女の、話をしましょう。
笑っている女の、話をしましょう。
怒っている女の、話をしましょう。
同時に男も、どちらでもない性別も、舞台でのあり方が広がっていくことを願いながら。
皆様、良いお年を!!
ちょこっと似たテーマで今年6月に書いた文
女は、本当は ―6月の『ふるあめりか』と『雪の渡り鳥』―

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女は、本当は ―6月の『ふるあめりか』と『雪の渡り鳥』―
6月8日、いつも自分の扉を開いてくれる友人が、今回もまた声をかけてくれて、歌舞伎座へ行った。人生初の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を観た。

自死した花魁・亀遊は、幕末の時流の中で面白がるように、勇ましき“攘夷女郎”に仕立て上げられてしまった。坂東玉三郎さん演じる芸者・お園が、最後の最後に絞りだす真実。
「亀遊さんは、花魁は、寂しくッて悲しくッて心細くッて、ひとりで死んだんだ」
このひとことが、救いの糸のように心に差し込む。誰もその苦しみに気がつかなくても。忘れ去っても。本当の花魁をまだ覚えている女が、一人いる。
降りしきる雨の中にほんのりと望みを照らす、ラストの情景が忘れがたい。
その4日後の6月12日、篠原演芸場で桐龍座恋川劇団の『雪の渡り鳥』を観た。

『雪の渡り鳥』は、大衆演劇の中でも劇団ごとに物語のバージョンがかなり違う。恋川さんのは、お市と銀平が想い合っているものの、お市の父は堅気気質の卯之吉と娘をくっつけたがって、強引に仮祝言に持ち込み、卯之吉と一緒になってしまうバージョンだった。
恋川純座長の鋭く切れるような銀平、劇団暁・三咲暁人若座長のかたくなな卯之吉がぶつかり合って、力みなぎる芝居だった。
その中で、ほっそりと客席にうたいかけるような、鈴川かれんさんのお市が目の中に残っている。
後編で、帆立一家に苛められ、この土地から出て行けと言われた後の、お市・卯之吉・父親3人の場面。卯之吉は、絶対に出て行ったりしないと歯を食いしばる。お市の声に耳を貸さないまま、卯之吉は部屋から出ていく。あのとき無理な仮祝言をしなければ…と悔やむお市に、父親はこう声をかける。
「卯之吉と仮祝言をさせたこと、俺は後悔してないからな。お前をやくざの女房にしなかったこと、堅気と一緒にさせたこと、俺は今も良かったと思っているからな」
父親も部屋から出ていく。
男2人が出て行って、そこにはお市ひとりきり。お市は言葉もなく、畳の上に、ウウーッと泣き崩れる。
このお市は、このまま首をくくってしまうんじゃないか…。先の物語を知っているのに、直感的にそう思った。
好きな銀平を諦めて、困窮していて、故郷から追われそうで、でも誰も彼女の気持ちを聞いてくれなくて。
畳にしがみつくように、むせび泣くお市。
ヒーロー・銀平が帰って来るタイミングが、あと少し遅かったら。そういう不吉なifを想像させる姿だった。
もし、銀平が帰ってこなかったとしたら。
お市っちゃんの苦しさは、誰が分かってくれるんだろう。「寂しくッて悲しくッて心細くッて、ひとりで死んだんだ」と、誰か言ってくれることがあるだろうか。卯之吉も父親も、悪さは抱えていないけれど、自分の意地を一番大切にしている世界で。
大衆演劇のお芝居に出てくる女たちは、本当は何を思っているんだろう。
男が「〇〇~!」と名前を叫ぶ幕切れのために、ひと太刀で死んだ女は、本当は誰を好きだったんだろう。
男が修行を終えて、間男成敗で片付けられた女は、本当はどういう人生を生きたかったんだろう。
キャラクターの陰影がifを呼び覚ますのも、役者さんの演技が真に迫っていてこそだ。かれんさん、お芝居に鋭い重みが増して、彼女が支柱になっている場面がいくつもあった。
そしてもちろん、『雪の渡り鳥』の原作やその派生作品に、お市という人物が細やかに書き込まれていることの証左でもある。
だから、これからの大衆演劇で、演技で光る女優さんが増えるほど。女性像がシッカリ書き込まれた、お芝居が増えるほど。
女は―本当は―何を思っていたの。
この問いが、毎日の外題から切実に生まれてくる気がしてならない。
花魁は寂しくッて悲しくッて心細くッて…。鞄から取り出したオペラグラスの向こう。玉三郎さんの、声自体が匂いを持っているようなトーンで言われたこの台詞を思い出すと、不思議な安心感がある。なんだか、戯曲のほうが全部わかっているよ、見えているよと、私たちが追いつくのを待っていてくれるように思えるのだ。有吉佐和子原作の『ふるあめりか』の初演は、1972年。人間をつぶさに見つめて愛した作家の目は、何十年、何百年先を見据えていたろう。
2022年の大衆演劇も、迷いながら、きっと雨の中をゆく。
演者の肉体を通して、女の落葉のような悲鳴が、観客にたどり着く。もうたどり着いている。
亀遊さんは、本当は。
お市っちゃんは、本当は。

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自死した花魁・亀遊は、幕末の時流の中で面白がるように、勇ましき“攘夷女郎”に仕立て上げられてしまった。坂東玉三郎さん演じる芸者・お園が、最後の最後に絞りだす真実。
「亀遊さんは、花魁は、寂しくッて悲しくッて心細くッて、ひとりで死んだんだ」
このひとことが、救いの糸のように心に差し込む。誰もその苦しみに気がつかなくても。忘れ去っても。本当の花魁をまだ覚えている女が、一人いる。
降りしきる雨の中にほんのりと望みを照らす、ラストの情景が忘れがたい。
その4日後の6月12日、篠原演芸場で桐龍座恋川劇団の『雪の渡り鳥』を観た。

『雪の渡り鳥』は、大衆演劇の中でも劇団ごとに物語のバージョンがかなり違う。恋川さんのは、お市と銀平が想い合っているものの、お市の父は堅気気質の卯之吉と娘をくっつけたがって、強引に仮祝言に持ち込み、卯之吉と一緒になってしまうバージョンだった。
恋川純座長の鋭く切れるような銀平、劇団暁・三咲暁人若座長のかたくなな卯之吉がぶつかり合って、力みなぎる芝居だった。
その中で、ほっそりと客席にうたいかけるような、鈴川かれんさんのお市が目の中に残っている。
後編で、帆立一家に苛められ、この土地から出て行けと言われた後の、お市・卯之吉・父親3人の場面。卯之吉は、絶対に出て行ったりしないと歯を食いしばる。お市の声に耳を貸さないまま、卯之吉は部屋から出ていく。あのとき無理な仮祝言をしなければ…と悔やむお市に、父親はこう声をかける。
「卯之吉と仮祝言をさせたこと、俺は後悔してないからな。お前をやくざの女房にしなかったこと、堅気と一緒にさせたこと、俺は今も良かったと思っているからな」
父親も部屋から出ていく。
男2人が出て行って、そこにはお市ひとりきり。お市は言葉もなく、畳の上に、ウウーッと泣き崩れる。
このお市は、このまま首をくくってしまうんじゃないか…。先の物語を知っているのに、直感的にそう思った。
好きな銀平を諦めて、困窮していて、故郷から追われそうで、でも誰も彼女の気持ちを聞いてくれなくて。
畳にしがみつくように、むせび泣くお市。
ヒーロー・銀平が帰って来るタイミングが、あと少し遅かったら。そういう不吉なifを想像させる姿だった。
もし、銀平が帰ってこなかったとしたら。
お市っちゃんの苦しさは、誰が分かってくれるんだろう。「寂しくッて悲しくッて心細くッて、ひとりで死んだんだ」と、誰か言ってくれることがあるだろうか。卯之吉も父親も、悪さは抱えていないけれど、自分の意地を一番大切にしている世界で。
大衆演劇のお芝居に出てくる女たちは、本当は何を思っているんだろう。
男が「〇〇~!」と名前を叫ぶ幕切れのために、ひと太刀で死んだ女は、本当は誰を好きだったんだろう。
男が修行を終えて、間男成敗で片付けられた女は、本当はどういう人生を生きたかったんだろう。
キャラクターの陰影がifを呼び覚ますのも、役者さんの演技が真に迫っていてこそだ。かれんさん、お芝居に鋭い重みが増して、彼女が支柱になっている場面がいくつもあった。
そしてもちろん、『雪の渡り鳥』の原作やその派生作品に、お市という人物が細やかに書き込まれていることの証左でもある。
だから、これからの大衆演劇で、演技で光る女優さんが増えるほど。女性像がシッカリ書き込まれた、お芝居が増えるほど。
女は―本当は―何を思っていたの。
この問いが、毎日の外題から切実に生まれてくる気がしてならない。
花魁は寂しくッて悲しくッて心細くッて…。鞄から取り出したオペラグラスの向こう。玉三郎さんの、声自体が匂いを持っているようなトーンで言われたこの台詞を思い出すと、不思議な安心感がある。なんだか、戯曲のほうが全部わかっているよ、見えているよと、私たちが追いつくのを待っていてくれるように思えるのだ。有吉佐和子原作の『ふるあめりか』の初演は、1972年。人間をつぶさに見つめて愛した作家の目は、何十年、何百年先を見据えていたろう。
2022年の大衆演劇も、迷いながら、きっと雨の中をゆく。
演者の肉体を通して、女の落葉のような悲鳴が、観客にたどり着く。もうたどり着いている。
亀遊さんは、本当は。
お市っちゃんは、本当は。

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新風プロジェクトから生まれたお芝居『木蓮』を観ました
『木蓮』
里美京馬副座長襲名&誕生日公演
2022.5.28 夜の部@篠原演芸場
劇団美山
原作:三日月姫さん
潤色:渡辺和徳さん


泣きすぎて、「自分の顔が塩辛い」レベル…。幕間にも、色んな思いが心の内に重なって、涙が止まらなくなりました。
お芝居の感想を書く前に、ご存じの方も多いとは思うけれど、作品の成立背景を改めて整理します。自分が『木蓮』に感動した理由に、深く関わってくるので。
篠原演劇企画さんが2022年から多様な方面で仕掛けている「新風プロジェクト」。脚本家の方によるオリジナル芝居の上演(3月・5月)と並行して、「脚本の一般公募」という企画が、1月末に発表されました。
4月の結果発表時、優秀作品の一本に輝いたのが、三日月姫さんによる『木蓮』でした。
以下、自分の感想です。
※ここから先はストーリー・配役ともネタバレしています。新作なので、物語を知りたくない方はご注意ください※
1. 大衆演劇ファンはすごい
まず、「一般公募」からこの作品が生まれたことで、大衆演劇の客席にはすごい才能が潜んでいるという考えを強くした日でした。
※『木蓮』原作者の三日月姫さんが、作品に込めた思いや、これまでの観劇体験について、ご自身のブログで書いていらっしゃるので、ぜひお読みください。
https://ameblo.jp/ryon1003/entry-12738540510.html
三日月姫さんにお目にかかったことはないのですが、以前からお芝居感想を何度も拝見していたブログです。このたび、ご本人にコンタクトを取り、ブログ紹介をご承諾いただきました🍀
大衆演劇ファンは「観ている芝居の種類数」で言うと、世界的にもレアなファン集団なのではと思います。たとえば週3回、最寄りの劇場に通う方は、月に12種類のお芝居を観ることになり、年間では144種類のお芝居を見ていることに(お外題被りはあれど)。お外題日替わりという驚異的な興行形態だからこそ、ファン一人一人の「物語の場数」も圧倒的な量になります。
客席に潜んでいる豊かさこそが、これからの大衆演劇を作ってゆける――大衆演劇ってすごいな、最高だな😭と興奮しました。
2.世の中で最も弱い者に寄り添う
『木蓮』の主人公・ごん太(京馬副座長)は盗賊です。好きで盗賊になったわけではなく、堅気になりたいと願っています。けれど幼いときに父は行方知れず、母は病でこの世を去り、兄とも生き別れ、辛酸を舐めて生きてきたことが語られます。かつ、それらの過去が主人公の装飾的要素ではなく、一つ一つがごん太の佇まいに繋がっている。自分の心が自然とシンクロしていきました。
大衆演劇は、世の中で最も弱い立場の人、力尽きていった人々の声をすくいあげるもの。そういうお芝居だと、自分は思っています。だから、ごん太が泣き叫ぶように、思いの丈を兄(たかし総座長)に語る場面は、嗚咽が止まりませんでした。ごん太のように、初めから「奪われた」状態でしか生きられず、暗い道から出るに出られなかった人が、たくさんいるのだろうな…と。
弱き者を、木蓮という優しいモチーフが包み込んでいることに、またグッときました。思えば、大衆演劇のお芝居で、桜以外の花が意味を持っている作品は少ないかもですね。
「新風プロジェクト」は、原作者×潤色×劇団の三者で作品を作る体制です。三者の力が重なることで、一番多くの観客に届く形に落とし込まれているのだろうと思います。
潤色は渡辺和徳さん。3月の木馬館で渡辺さん作のお芝居『夢の夢とて』も拝見したので、決めどころの台詞のリズムの良さなどに、原作の魅力を再構成する潤色の力を感じました。
3. 花咲く役者
京馬副座長は恵まれた体格に愛くるしい容色、かつ「情の芝居をする」役者さんです。



5/28夜ラストショーより。きっと子どもの頃からこういうお顔なんだろうなぁ、というあどけなさがなんとも可愛い。
『木蓮』は、京馬さんの魅力がいっぱいでした。
たとえば、息子と一緒に居酒屋を切り盛りする女性・おきよ(美嘉さん)と、ごん太のシーン。おきよに対して、ごん太がはにかみ気味なのが実にキュート!ちょっと照れて言う「また来ました」とか、腕の傷は痛みますか?とおきよに聞かれて「いえ、今日はまったく」とか。堅気の人々の温かさに憧れつつも、どこか遠慮している哀しさが、京馬さんの長身に滲みます。
やっぱり、役者の個性が花開いている作品は楽しいです。特に節目となる記念公演に、「京馬さんの魅力にあふれた芝居」が誕生したことを、お祝いしたい気持ちになりました。
4. 新しい風
『木蓮』には、個人的にとても新鮮に感じた部分がありました。
まず、兄弟の絆と、居酒屋の親子とごん太の交流という、二軸でお話が動いてゆくこと。前者の血の濃さと、後者の赤の他人と縁を結んでゆこうとする切なさが、作品の中で同等の重みを持っていました。そのことで、号泣作品であると同時に、風通しの良さが胸に残ります。
それから、おきよとごん太の距離感。ごん太はおきよに、亡き母の面影を重ねているのは明白なのですが、かと言って母の完全代理ではなく…。むしろ、お互いに知らないことの多い他者だからこそ、おきよはごん太に曇りなき意見をしてくれます。美嘉さんの真摯な演技も光っていました。
「お母さん」でもなく、「紅一点」でもない女性キャラクターと主人公の距離感は、ありそうでなかった気がします。
意図的なものでも、そうでなくても。「多くの人が制作に関わる」ことのメリットは、こういった眼差しに透けるものだ、と思います。変わらない価値観を大切に抱いてきた腕に、ふと爽やかな風の差し込むよう。
まさに「新風プロジェクト」!!(勝手に言う)
お芝居にどっぷり浸かって、たくさん泣いたけれど。終演後には白い花が咲くように、希望が心の中に残っていた。『木蓮』はそんなお芝居でした。

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里美京馬副座長襲名&誕生日公演
2022.5.28 夜の部@篠原演芸場
劇団美山
原作:三日月姫さん
潤色:渡辺和徳さん


泣きすぎて、「自分の顔が塩辛い」レベル…。幕間にも、色んな思いが心の内に重なって、涙が止まらなくなりました。
お芝居の感想を書く前に、ご存じの方も多いとは思うけれど、作品の成立背景を改めて整理します。自分が『木蓮』に感動した理由に、深く関わってくるので。
篠原演劇企画さんが2022年から多様な方面で仕掛けている「新風プロジェクト」。脚本家の方によるオリジナル芝居の上演(3月・5月)と並行して、「脚本の一般公募」という企画が、1月末に発表されました。
4月の結果発表時、優秀作品の一本に輝いたのが、三日月姫さんによる『木蓮』でした。
以下、自分の感想です。
※ここから先はストーリー・配役ともネタバレしています。新作なので、物語を知りたくない方はご注意ください※
1. 大衆演劇ファンはすごい
まず、「一般公募」からこの作品が生まれたことで、大衆演劇の客席にはすごい才能が潜んでいるという考えを強くした日でした。
※『木蓮』原作者の三日月姫さんが、作品に込めた思いや、これまでの観劇体験について、ご自身のブログで書いていらっしゃるので、ぜひお読みください。
https://ameblo.jp/ryon1003/entry-12738540510.html
三日月姫さんにお目にかかったことはないのですが、以前からお芝居感想を何度も拝見していたブログです。このたび、ご本人にコンタクトを取り、ブログ紹介をご承諾いただきました🍀
大衆演劇ファンは「観ている芝居の種類数」で言うと、世界的にもレアなファン集団なのではと思います。たとえば週3回、最寄りの劇場に通う方は、月に12種類のお芝居を観ることになり、年間では144種類のお芝居を見ていることに(お外題被りはあれど)。お外題日替わりという驚異的な興行形態だからこそ、ファン一人一人の「物語の場数」も圧倒的な量になります。
客席に潜んでいる豊かさこそが、これからの大衆演劇を作ってゆける――大衆演劇ってすごいな、最高だな😭と興奮しました。
2.世の中で最も弱い者に寄り添う
『木蓮』の主人公・ごん太(京馬副座長)は盗賊です。好きで盗賊になったわけではなく、堅気になりたいと願っています。けれど幼いときに父は行方知れず、母は病でこの世を去り、兄とも生き別れ、辛酸を舐めて生きてきたことが語られます。かつ、それらの過去が主人公の装飾的要素ではなく、一つ一つがごん太の佇まいに繋がっている。自分の心が自然とシンクロしていきました。
大衆演劇は、世の中で最も弱い立場の人、力尽きていった人々の声をすくいあげるもの。そういうお芝居だと、自分は思っています。だから、ごん太が泣き叫ぶように、思いの丈を兄(たかし総座長)に語る場面は、嗚咽が止まりませんでした。ごん太のように、初めから「奪われた」状態でしか生きられず、暗い道から出るに出られなかった人が、たくさんいるのだろうな…と。
弱き者を、木蓮という優しいモチーフが包み込んでいることに、またグッときました。思えば、大衆演劇のお芝居で、桜以外の花が意味を持っている作品は少ないかもですね。
「新風プロジェクト」は、原作者×潤色×劇団の三者で作品を作る体制です。三者の力が重なることで、一番多くの観客に届く形に落とし込まれているのだろうと思います。
潤色は渡辺和徳さん。3月の木馬館で渡辺さん作のお芝居『夢の夢とて』も拝見したので、決めどころの台詞のリズムの良さなどに、原作の魅力を再構成する潤色の力を感じました。
3. 花咲く役者
京馬副座長は恵まれた体格に愛くるしい容色、かつ「情の芝居をする」役者さんです。



5/28夜ラストショーより。きっと子どもの頃からこういうお顔なんだろうなぁ、というあどけなさがなんとも可愛い。
『木蓮』は、京馬さんの魅力がいっぱいでした。
たとえば、息子と一緒に居酒屋を切り盛りする女性・おきよ(美嘉さん)と、ごん太のシーン。おきよに対して、ごん太がはにかみ気味なのが実にキュート!ちょっと照れて言う「また来ました」とか、腕の傷は痛みますか?とおきよに聞かれて「いえ、今日はまったく」とか。堅気の人々の温かさに憧れつつも、どこか遠慮している哀しさが、京馬さんの長身に滲みます。
やっぱり、役者の個性が花開いている作品は楽しいです。特に節目となる記念公演に、「京馬さんの魅力にあふれた芝居」が誕生したことを、お祝いしたい気持ちになりました。
4. 新しい風
『木蓮』には、個人的にとても新鮮に感じた部分がありました。
まず、兄弟の絆と、居酒屋の親子とごん太の交流という、二軸でお話が動いてゆくこと。前者の血の濃さと、後者の赤の他人と縁を結んでゆこうとする切なさが、作品の中で同等の重みを持っていました。そのことで、号泣作品であると同時に、風通しの良さが胸に残ります。
それから、おきよとごん太の距離感。ごん太はおきよに、亡き母の面影を重ねているのは明白なのですが、かと言って母の完全代理ではなく…。むしろ、お互いに知らないことの多い他者だからこそ、おきよはごん太に曇りなき意見をしてくれます。美嘉さんの真摯な演技も光っていました。
「お母さん」でもなく、「紅一点」でもない女性キャラクターと主人公の距離感は、ありそうでなかった気がします。
意図的なものでも、そうでなくても。「多くの人が制作に関わる」ことのメリットは、こういった眼差しに透けるものだ、と思います。変わらない価値観を大切に抱いてきた腕に、ふと爽やかな風の差し込むよう。
まさに「新風プロジェクト」!!(勝手に言う)
お芝居にどっぷり浸かって、たくさん泣いたけれど。終演後には白い花が咲くように、希望が心の中に残っていた。『木蓮』はそんなお芝居でした。

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2021年お芝居3本と、「男らしさ」をめぐる話
今年も無事に大晦日🍊
大衆演劇を愛する友人たちとは、お茶がてらご飯がてら、色々な話をする。
その中でここ数年必ず話題になるのが、お芝居の中の「男」と「女」の表れ方の話。とりわけ、大衆演劇のお芝居が最大ボリュームを割いている、「カッコイイ男」。
恩、義理、兄弟分の契り、悲しいときは心で泣いて、女房には心で詫びて――旅芝居の代表的な男性像は、これからの時代も「男らしい」と、観客をときめかせるのかな。私たちは、お芝居の中の変わらない「男らしさ」を喜んで受け止められるのかな?
「座長のこの役、カッコよかったね」
これは、頭でとらえるより先に、本能をビリビリさせる感覚だ。だってカッコイイものはカッコイイ。
もちろん昔から形を変えずに、今なお心を引き留める、「男らしさ」のお芝居も数多くある。その一方で、令和の時代の揺れの中、「カッコイイ男」の物差しを丸ごと抜き替えてしまうお芝居もある。
そんなことを思い返す、毎年恒例のお芝居振り返りブログ⛄今年、お萩にとって印象的だった3本のお芝居を順に語ります。
※劇中のネタバレを含みます。特に3本目はオリジナル作品なので、結末は伏せていますが未見の方はご注意下さい※
★劇団美山『刺青奇偶』2021.5.2 篠原演芸場

半太郎=里美たかし総座長
ラストショー【三人吉三】より

お仲=里美こうた座長
触れる、即火傷、みたいな半太郎。総座長のシャープな存在感が、役の中でギラッと光る。
「あたしもう長くないんです」
とお仲(里美こうた座長)に言われた半太郎は、うつむいて、長い沈黙を置いて。
「死ぬもんか。俺がお前を死なせねえよ。――そういう話は、好きじゃない」
と努めて冷静に言う。耐える半太郎の悲しさがジン、と場ににじむ。
空白の中に二人の声を聞くような静けさだ。ここがあってこそ、次の刺青を彫る見せ場が盛り上がる。
劇団美山さんの大きな特長と思うのは、里美たかしさん、こうたさん、京馬さん…という生身の役者さんに、はっきりとキャラ付けがされていること。個々の役の魅力も、前提となる役者のキャラの厚みと繋がっている。
里美たかし総座長は、役者さんとしてはいわゆる男っぽい、ワイルドなキャラクター。ゴールデンウィークの篠原演芸場は満席も満席で、時代の追い風を存分に吸ったその人の半太郎には、「有無を言わせぬ」腕力があった。
そして力強い半太郎像は、こうた座長演じる、恋に恋する乙女心のデフォルメ的なお仲と、めちゃくちゃ相性がいい。長い歳月、息を合わせてやってきたペアならではの魅力も感じた。
バリバリの男っぽい役作りを支えるのは、充実した心技体。月一で配信される劇団美山インスタライブはテーマの絞り方や段取りの良さが見やすくて、ちょくちょく拝見している。
12月のインスタライブは、「来年は〇〇マスターになる」というテーマで、一人ずつ目標を語っていくコーナーがあった。総座長の「僕は貴方(お客様)のマスターになります」という回答が実に総座長で(笑)、自分のキャラクターを徹底するってこういうことなんだなぁと思わされた。
12月配信のアーカイブ(劇団美山公式Youtube)
今年4月には、里美たかし総座長に独自インタビューをさせていただきました。
「劇団美山は劇団員みんながスーパーサイヤ人になりたい」など、インパクト大な発言がたくさんありました!
掲載記事:大衆演劇の入り口から[其之四十一] 最強集団へ駆け昇る!劇団美山・里美たかし総座長 東京公演直前ロングインタビュー
★澤村慎太郎劇団『お糸新吉』2021.9.5 @よしかわ天然温泉ゆあみ

新吉=澤村慎太郎座長
心の傷がむりやり体に閉じ込められている。
慎太郎座長演じる新吉が、顔のやけども痛々しく、恋するお糸(紅月あみかさん)や店の者たちに裏切られ、膝をついて静かに悔しさこらえる姿。「人三化け七」と罵られ、怒りは時限爆弾のように、細い糸で綴じられている。
色々な劇団でかかる『お糸新吉』は、ドラマティックで好きな外題の一つ。これまでは、激しいヤマ上げや立ち回りで、新吉役の怒りを叩きつけて、そのド迫力で観客を魅せる物語という印象が強かった。
でも、澤村慎太郎劇団バージョンは、ひんやりとした民話のような。長台詞にも、古くて美しい言葉が並んでいた。音も照明も一つ一つ丁寧に作られていて、劇団が大切にされているお外題なんだなぁと感じた。
一番怖かったのが、復讐を決意した新吉が現れるシーン。祭りの日という設定で、舞台では店の三人(蝶五郎さん、あみかさん、あとむさん)が、何も気づかず円になって踊っている。
そこにダッダッダ、と柝で舞台を叩く音。三人の踊りがピタリと停止し、照明が消える。そして客席から現れる、頭をざんばらに乱した新吉…。
日常が「音」の侵入で非日常に変わる。舞台は柝が鳴った後の世界へ運ばれていく。
傷つけられた男の誇りを力技でやり返す、という物語でなく。ただこういう風に傷ついた男の人がいた、ということがヒタヒタと描かれていくテイストだった。慎太郎座長の柔らかな輪郭とも合っていて、もう一度観たい一本。

同日のラストショー【雪女】も、本当に素晴らしかった。
9月が仕事の忙しい時期にぶつかってしまい、他のお外題を観られなかったのが心残り😢でも来年以降、関東でも関西でも、この劇団さんが近くにいたら必ず行こうと思っている。
次が最後の一本。取り上げた3本のお芝居はどれもが今年の1位なんだけど、あえて「今年の一本」を選ぶなら次の作品にします。それくらい衝撃作だった。
★劇団美松『弁天小僧リオーガナイズ』『弁天小僧リオーガナイズ2 ―吉原徒花―』

弁天小僧菊之助=松川小祐司座長

神保町の政吉=南雄哉さん(劇団菊花形)
1は7/25@浅草木馬館、2は12/19@大島劇場、どちらも初演を拝見。
【重要】新年1/8(土)、篠原演芸場公演の昼の部が「1」、夜の部が「2」というシリーズ一挙上演の日があります!
『弁天小僧リオーガナイズ』は、作家としても多作の小祐司座長の執筆作品。大泥棒・弁天小僧菊之助と、十手持ち・神保町の政吉のコンビが、悪渦巻く陰謀に首を突っ込んでゆく、痛快な事件解決もののシリーズだ。
7月の第一作初お披露目の日、幕が下りた瞬間、「リオーガナイズ、最高」と心の中で拳を突き上げ、観劇仲間にも話しまくり、スマホは「r」と入力したらreorganizeという単語を一発で出してくれるようになった。現在進行中で、この作品の虜になっている。
小祐司座長の作家性が、何の遠慮もなく大暴れしているところが楽しい。アニメやライトノベルが大好きとインタビュー等で発言されている通り、これ大衆演劇で観たことないな、という見せ方にいくつも出会う。場面転換を大幅カットして、「既に場所が変わったかのように」話が進むテンポの良さとか、アニメっぽい笑いのセンスとか。
とりわけこの作品がフレッシュだったのは、「男」と「女」の描き方がすごくフラットなこと。男と女の格好を行き来する弁天は、ヒーローであり、同時にヒロインでもある。悪者成敗するのも弁天だし、看板娘のお菊ちゃんとか花魁の初菊とかに化けて、物語の花をになうのも弁天。かつ、お菊ちゃん目当てに店に通う男に混じって、桜川幸梅さん演じる女の子のお菊ちゃんファンがさりげなくいる。現代で言う、女性アイドルを推す女性みたいなものだ。
「2」では幸梅さん演じる女郎・お蔵を、弁天が助け出す展開になる。けど、女と男の惚れたはれた的な話に持っていかず、あくまで昔、お蔵が弁天の命を助けた恩人だからという関係性でクールに進む。
Reorganize(再編成)された弁天小僧は、「女に見せて実は男」という対照性でなく、「女も男も弁天小僧の内側にあるものなんですよ」という均等性でシレッとそこに立っている。それがすごく新鮮でカッコイイ。
そして雄哉さん演じる政吉。なんだかんだ弁天に協力してしまう人の良い役柄が、雄哉さんのひたむきさを引き出していて、ピッタリの役だ。「2」で、弁天のせいで政吉が女郎屋の下働きとして必死に働き回る場面は、雄哉さんのコミカルなセンスの生きる独壇場だった。
弁天&政吉の関係性は、友情なのか愛着なのか腐れ縁なのか、みずみずしい二人。このコンビの活躍を見守っているうちに、「大衆演劇の男らしさってこういうもの」という概念が、爽快に吹かれて飛んでいく。
もっと、自由でいい。
もっと、その人らしくていい。

新しいものを生み出していくのは、今ここにいるその人なのだから。
変わっていくもの、変わらないもの。受け継がれていくもの、生み出されるもの。舞台には昔ながらの旅芝居が響きつつ、それでも来年は令和4年。目を覚ましてくれるような表現が、きっと待っている。「こういうもの」を軽やかに飛び越えながら。
来年も色々なことを考えて、書いていきたいと思います。誰にとっても、心を救う芝居との出会いの年になりますように!

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大衆演劇を愛する友人たちとは、お茶がてらご飯がてら、色々な話をする。
その中でここ数年必ず話題になるのが、お芝居の中の「男」と「女」の表れ方の話。とりわけ、大衆演劇のお芝居が最大ボリュームを割いている、「カッコイイ男」。
恩、義理、兄弟分の契り、悲しいときは心で泣いて、女房には心で詫びて――旅芝居の代表的な男性像は、これからの時代も「男らしい」と、観客をときめかせるのかな。私たちは、お芝居の中の変わらない「男らしさ」を喜んで受け止められるのかな?
「座長のこの役、カッコよかったね」
これは、頭でとらえるより先に、本能をビリビリさせる感覚だ。だってカッコイイものはカッコイイ。
もちろん昔から形を変えずに、今なお心を引き留める、「男らしさ」のお芝居も数多くある。その一方で、令和の時代の揺れの中、「カッコイイ男」の物差しを丸ごと抜き替えてしまうお芝居もある。
そんなことを思い返す、毎年恒例のお芝居振り返りブログ⛄今年、お萩にとって印象的だった3本のお芝居を順に語ります。
※劇中のネタバレを含みます。特に3本目はオリジナル作品なので、結末は伏せていますが未見の方はご注意下さい※
★劇団美山『刺青奇偶』2021.5.2 篠原演芸場

半太郎=里美たかし総座長
ラストショー【三人吉三】より

お仲=里美こうた座長
触れる、即火傷、みたいな半太郎。総座長のシャープな存在感が、役の中でギラッと光る。
「あたしもう長くないんです」
とお仲(里美こうた座長)に言われた半太郎は、うつむいて、長い沈黙を置いて。
「死ぬもんか。俺がお前を死なせねえよ。――そういう話は、好きじゃない」
と努めて冷静に言う。耐える半太郎の悲しさがジン、と場ににじむ。
空白の中に二人の声を聞くような静けさだ。ここがあってこそ、次の刺青を彫る見せ場が盛り上がる。
劇団美山さんの大きな特長と思うのは、里美たかしさん、こうたさん、京馬さん…という生身の役者さんに、はっきりとキャラ付けがされていること。個々の役の魅力も、前提となる役者のキャラの厚みと繋がっている。
里美たかし総座長は、役者さんとしてはいわゆる男っぽい、ワイルドなキャラクター。ゴールデンウィークの篠原演芸場は満席も満席で、時代の追い風を存分に吸ったその人の半太郎には、「有無を言わせぬ」腕力があった。
そして力強い半太郎像は、こうた座長演じる、恋に恋する乙女心のデフォルメ的なお仲と、めちゃくちゃ相性がいい。長い歳月、息を合わせてやってきたペアならではの魅力も感じた。
バリバリの男っぽい役作りを支えるのは、充実した心技体。月一で配信される劇団美山インスタライブはテーマの絞り方や段取りの良さが見やすくて、ちょくちょく拝見している。
12月のインスタライブは、「来年は〇〇マスターになる」というテーマで、一人ずつ目標を語っていくコーナーがあった。総座長の「僕は貴方(お客様)のマスターになります」という回答が実に総座長で(笑)、自分のキャラクターを徹底するってこういうことなんだなぁと思わされた。
12月配信のアーカイブ(劇団美山公式Youtube)
今年4月には、里美たかし総座長に独自インタビューをさせていただきました。
「劇団美山は劇団員みんながスーパーサイヤ人になりたい」など、インパクト大な発言がたくさんありました!
掲載記事:大衆演劇の入り口から[其之四十一] 最強集団へ駆け昇る!劇団美山・里美たかし総座長 東京公演直前ロングインタビュー
★澤村慎太郎劇団『お糸新吉』2021.9.5 @よしかわ天然温泉ゆあみ

新吉=澤村慎太郎座長
心の傷がむりやり体に閉じ込められている。
慎太郎座長演じる新吉が、顔のやけども痛々しく、恋するお糸(紅月あみかさん)や店の者たちに裏切られ、膝をついて静かに悔しさこらえる姿。「人三化け七」と罵られ、怒りは時限爆弾のように、細い糸で綴じられている。
色々な劇団でかかる『お糸新吉』は、ドラマティックで好きな外題の一つ。これまでは、激しいヤマ上げや立ち回りで、新吉役の怒りを叩きつけて、そのド迫力で観客を魅せる物語という印象が強かった。
でも、澤村慎太郎劇団バージョンは、ひんやりとした民話のような。長台詞にも、古くて美しい言葉が並んでいた。音も照明も一つ一つ丁寧に作られていて、劇団が大切にされているお外題なんだなぁと感じた。
一番怖かったのが、復讐を決意した新吉が現れるシーン。祭りの日という設定で、舞台では店の三人(蝶五郎さん、あみかさん、あとむさん)が、何も気づかず円になって踊っている。
そこにダッダッダ、と柝で舞台を叩く音。三人の踊りがピタリと停止し、照明が消える。そして客席から現れる、頭をざんばらに乱した新吉…。
日常が「音」の侵入で非日常に変わる。舞台は柝が鳴った後の世界へ運ばれていく。
傷つけられた男の誇りを力技でやり返す、という物語でなく。ただこういう風に傷ついた男の人がいた、ということがヒタヒタと描かれていくテイストだった。慎太郎座長の柔らかな輪郭とも合っていて、もう一度観たい一本。

同日のラストショー【雪女】も、本当に素晴らしかった。
9月が仕事の忙しい時期にぶつかってしまい、他のお外題を観られなかったのが心残り😢でも来年以降、関東でも関西でも、この劇団さんが近くにいたら必ず行こうと思っている。
次が最後の一本。取り上げた3本のお芝居はどれもが今年の1位なんだけど、あえて「今年の一本」を選ぶなら次の作品にします。それくらい衝撃作だった。
★劇団美松『弁天小僧リオーガナイズ』『弁天小僧リオーガナイズ2 ―吉原徒花―』

弁天小僧菊之助=松川小祐司座長

神保町の政吉=南雄哉さん(劇団菊花形)
1は7/25@浅草木馬館、2は12/19@大島劇場、どちらも初演を拝見。
【重要】新年1/8(土)、篠原演芸場公演の昼の部が「1」、夜の部が「2」というシリーズ一挙上演の日があります!
『弁天小僧リオーガナイズ』は、作家としても多作の小祐司座長の執筆作品。大泥棒・弁天小僧菊之助と、十手持ち・神保町の政吉のコンビが、悪渦巻く陰謀に首を突っ込んでゆく、痛快な事件解決もののシリーズだ。
7月の第一作初お披露目の日、幕が下りた瞬間、「リオーガナイズ、最高」と心の中で拳を突き上げ、観劇仲間にも話しまくり、スマホは「r」と入力したらreorganizeという単語を一発で出してくれるようになった。現在進行中で、この作品の虜になっている。
小祐司座長の作家性が、何の遠慮もなく大暴れしているところが楽しい。アニメやライトノベルが大好きとインタビュー等で発言されている通り、これ大衆演劇で観たことないな、という見せ方にいくつも出会う。場面転換を大幅カットして、「既に場所が変わったかのように」話が進むテンポの良さとか、アニメっぽい笑いのセンスとか。
とりわけこの作品がフレッシュだったのは、「男」と「女」の描き方がすごくフラットなこと。男と女の格好を行き来する弁天は、ヒーローであり、同時にヒロインでもある。悪者成敗するのも弁天だし、看板娘のお菊ちゃんとか花魁の初菊とかに化けて、物語の花をになうのも弁天。かつ、お菊ちゃん目当てに店に通う男に混じって、桜川幸梅さん演じる女の子のお菊ちゃんファンがさりげなくいる。現代で言う、女性アイドルを推す女性みたいなものだ。
「2」では幸梅さん演じる女郎・お蔵を、弁天が助け出す展開になる。けど、女と男の惚れたはれた的な話に持っていかず、あくまで昔、お蔵が弁天の命を助けた恩人だからという関係性でクールに進む。
Reorganize(再編成)された弁天小僧は、「女に見せて実は男」という対照性でなく、「女も男も弁天小僧の内側にあるものなんですよ」という均等性でシレッとそこに立っている。それがすごく新鮮でカッコイイ。
そして雄哉さん演じる政吉。なんだかんだ弁天に協力してしまう人の良い役柄が、雄哉さんのひたむきさを引き出していて、ピッタリの役だ。「2」で、弁天のせいで政吉が女郎屋の下働きとして必死に働き回る場面は、雄哉さんのコミカルなセンスの生きる独壇場だった。
弁天&政吉の関係性は、友情なのか愛着なのか腐れ縁なのか、みずみずしい二人。このコンビの活躍を見守っているうちに、「大衆演劇の男らしさってこういうもの」という概念が、爽快に吹かれて飛んでいく。
もっと、自由でいい。
もっと、その人らしくていい。

新しいものを生み出していくのは、今ここにいるその人なのだから。
変わっていくもの、変わらないもの。受け継がれていくもの、生み出されるもの。舞台には昔ながらの旅芝居が響きつつ、それでも来年は令和4年。目を覚ましてくれるような表現が、きっと待っている。「こういうもの」を軽やかに飛び越えながら。
来年も色々なことを考えて、書いていきたいと思います。誰にとっても、心を救う芝居との出会いの年になりますように!

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